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第十八章 最後のページ

 ここから先は、兄が覚えていたことを、紬が言葉にした。


 病室へ駆けつけたとき、廊下で紬とすれ違った。彼女は壁へ片手をつき、もう片方で杖を握っている。スタッフに転院の手続きを急かされても、病室の扉から目を離さなかった。


「弟さんは」


 医師の名札を見て尋ねた。


「今、処置をしています」


「私、聞きたいことが」


 弟との約束をふと思い出した。弟が自分で言うまでは、大学のことを話さない。何度も守るべきかどうか悩んでいた約束だった。


「目を覚ましたら、必ず伝えます」


 紬は唇を噛み、頭を下げた。


「明日、転院します。でも、戻ってきますから」


 その言葉を、弟へ届けられなかった。


 彼はその夜、意識を取り戻すことはなかった。呼吸が不規則になり、薬の量が増えた。父と母が来て、三人でベッドを囲んだ。


 母は息子の手を握り、子どもの頃の話をした。初めて歩いた日、熱を出して兄の布団へ潜り込んだ夜、入学式の日に眼鏡を忘れ、黒板が見えなかったこと。


 返事はなかった。


 父は窓際に立ち、モニターの数字を見ていた。医師として見れば、これから何が起きるか分かっている。父親としては、数字から目を離せなかった。


「座ったら」


 そう声をかけても父は動かない。


「父さん」


 二度目に呼ぶと、ようやく椅子へ座った。


「私が治療を急がせすぎた」


 誰へ向けた言葉か分からなかった。


「こいつは、治療を受けた」


「もっとできたはずだ」


「できなかったことを、今数えるな」


 思わず声が強くなった。父は顔を上げた。


「お前は数えないのか」


 数えていた。もっと早く症状に気づけなかったか。別の薬を選べなかったか。医者ではなく兄としてそばにいる時間を増やせなかったか。


 数えれば、夜がいくつあっても足りない。


「数える。でも、こいつの前ではやめる」


 父は両手を膝の上で組んだ。


 しばらくして、母が眠った。息子の手を握ったまま、ベッドへ頭を預けている母に毛布をかけた。


 明け方、彼が目を開けた。焦点が合うまで時間がかかったようだが、しばらくして目が合った。


「彼女は」


 掠れた声だった。


「今日、転院する。戻ってくると言ってた」


 彼は目を閉じ、ほんの少し笑った。


「間に合わなかった」


「まだ話せる。電話するか」


 首を横へ動かした。


「本を」


「原稿?」


「朝倉紬さんに、読んでもらいたい」


 病院で一度も呼ばなかった名前を口にした。


「自分で渡せ」


「無理を言うな」


「写真もある。見せるはずだったんだろ」


「それは、もういい」


「よくない」


「しおりがある」


 銀杏のしおりのことだった。


「あれを見れば、分かる」


「分かったあとで、なぜ黙ってたか聞かれる」


 彼は苦しそうに息をし、それでも口元を少し動かした。


「読んで、決めてもらう」


「卑怯だな」


「知ってる」


 兄は弟の手を握った。


「俺は、お前が正しかったとは言わないからな」


「うん」


「彼女にもそう言う」


「うん」


「それでも渡す」


 彼は頷いた。


 父が目を覚ましてベッドへ近づくと、彼が父を見た。


「論文、読んでくれて、ありがとう」


 父の顔が歪んだ。


「役に立たなかった」


「役に立ったよ」


「どこが」


「父さんが、諦めてないって分かった」


 父は何かを言おうとしたが、声が出なかった。


「患者の家族に、ティッシュを置いたでしょう」


 彼が不意に言った。父には、いつの話か分からないようだった。


「病室の前で見てた。いい医者だと思った」


 父は両手で息子の手を包んだ。


「いい父親ではなかった」


「それは、別の話」


 弟らしい返事だった。


 母も目を覚まし、泣きながら、ここにいる、と何度も言った。


 彼は三人の顔を順に見た。


「眠い」


「起きたら、母さんの煮物を食べなさい」


 母が言った。


「味、濃いから」


「今日は薄くするわよ」


「それなら」


 言葉は最後まで続かなかった。


 彼は目を閉じた。


 それから二日後の明け方、静かに息を引き取った。


 父は時計を見ず、医師として死亡時刻を確認する人が来るまで、息子の手を握り続けた。


 病室を片づけると、机の引き出しから写真の封筒が出てきた。大学のベンチに座る弟。その下に、薄い茶色の封筒と、兄にもらった最初の本がある。


 本を開くと、銀杏のしおりが落ちた。


 大学のベンチで一度だけ手に取った葉を、兄はもう一度、窓の光へかざした。あのとき弟は、誰が作ったのかを答えなかった。


 しおりが、名前より先に二人をつなぐ。


 弟が最後に言った意味を、兄はそこでようやく理解した。


 彼はそれらを鞄へ入れた。


 紬の転院先へすぐ連絡することはできなかった。彼女自身の治療が始まったばかりで、事務所を通す必要もある。何度も電話番号を表示しては閉じた。


 一週間後、ようやく連絡した。


 弟のことで、お話があります、と。

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