第四部 余白 第十九章 事故の朝
事故の前、紬が眠ったのは、撮影所の控室での二十七分だけだった。
主演映画の撮影が予定より押し、そのまま雑誌の取材へ移動し、深夜には広告用の音声を録った。翌朝の日の出に合わせて、別の作品の撮影が入っている。事務所の車で移動するあいだ、目を閉じても、マネージャーの電話と道路の振動で、眠りには落ちなかった。
取材では、最近夢中になっていることを尋ねられた。
「特にありません」
そう答えると、編集者は困ったように笑った。読者が真似できるものがいいのだと言われ、スタッフが横から、朝倉は健康のために白湯を飲んでいます、と付け加えた。
紬は白湯を飲んでいなかった。それでも記事には、毎朝の習慣として載るのだろう。
「仕事を始めた頃から、変わらず大切にしているものはありますか」
次の質問が来た。
古いハンカチと、一冊の短編集が浮かんだ。どちらも大学二年の頃から持っているのに、手に入れた日の記憶がなかった。
「特にありません」
また同じ答えをした。
本当のことを話せば、それはもう自分だけのものではなくなる。どこの大学か、なぜ覚えていないのか、治療を受けた病院はどこか。質問が増え、記憶の空白まで他人の物語にされる気がした。
紬が記憶の空白に気づいたのは、十年前の十二月だった。
最終選考の会場では、スマートフォンを受付に預けた。
自由演技に選んだのは、短編集の三つ目の物語だった。故郷へ戻った女性が、誰もいない家の窓辺へ灯りを置く。なぜその場面にしたのかと聞かれ、紬は、最後に少しだけ明るいからです、と答えた。
その言葉をどこで覚えたのか、紬には思い出せない。
演技を終えて審査会場を出た時刻と、病院からの電話に出た時刻とのあいだには、説明のできない一時間があった。
スマートフォンが二度鳴った。
一度目を切り、二度目に出た。その場面だけは、音のない短い映像として残っている。
母が病院へ運ばれた。
紬は駅へ走った。電車の中で画面を開くと、病院からの着信の下に、大学の友人たちからのメッセージが並んでいた。
会場に入るところを、誰かが撮っていた。以前、練習中の動画を流した友人が、また挑戦してる、と書き、笑う記号をつけていた。
――お母さん、大変なんじゃなかった?
以前は親しかった一人から、その一文が届いていた。
心配なのか、責めているのか分からなかった。紬には、責める言葉にしか読めなかった。
その朝、母は電話で、今日は病院へ来なくていいと言った。
終わったら、どうだったかだけ教えて。
最後に交わしたはずの言葉は、録音のように残っている。けれど、それが本当に母の声なのか、葬儀のあとで家族から聞いた話を、自分の記憶に置き直しただけなのか、確信が持てない。
病院へ着いたとき、母はもう話せなかった。
看護師に案内された病室で、白い布団から出た手を握った。温かかったと思う。冷たかったと言われれば、そうだった気もする。
医師の説明を聞き、親族に連絡し、死亡診断書に書かれた文字を見た。そのどれも事実として知っているのに、自分がその場にいたという感覚がない。
母の鞄には、オーディションの募集記事を切り抜いた紙が入っていた。端に丸がつけられ、日付の横に、紬、と母の字で書かれていた。
応援していたのか、心配していたのか、聞くことはもうできなかった。
葬儀の三日後、事務所から合格の連絡が来た。
「何のですか」
紬はそう尋ねたという。
自分では覚えていない。電話を受けた叔母から、あとで聞いた。
眠れない日と、眠ったまま起き上がれない日が続いた。大学の友人の名前を見ても、いつ親しくなり、いつ離れたのか分からない。講義室の場所は分かるのに、その教室で誰の隣に座っていたのかが抜け落ちていた。
頭部の検査で異常は見つからず、薬や酒による記憶障害でもなかった。精神科の医師は、何度も話を聞いたあとで、一つの診断名を口にした。紬の耳には残らない、硬い言葉だった。
母の闘病、同級生からの嫌がらせ、将来を決めるオーディション、死に目に間に合わなかったという罪悪感。原因を一つに決めることはできない。強い負担が重なった時期の記憶に、近づけなくなっているのだと説明された。
無理に思い出そうとしないこと。誰かに教えられた出来事を、自分の記憶と混同することがあること。戻る記憶もあれば、戻らない記憶もあること。
紬は事務所の寮に移り、治療を受けながら仕事を始めた。予定が分刻みで決められている生活は、空白を確かめずに済んだ。
翌年の六月、休学の書類を出すため、半年ぶりに大学へ行った。
事務所の担当者を車に待たせ、学生課で手続きを終えた。帰りは正門へ向かうはずだった。けれど気づくと、旧図書館の脇を歩いていた。
行き先があったわけではない。木陰のほうが涼しそうに見え、舗装された道を外れただけだった。
煉瓦の壁と雑木林のあいだに、古いベンチがあった。
紬は左端に座った。
なぜ左を選んだのかは分からない。右側には、人ひとり分より少し広い空白が残った。
木の匂いを知っている気がした。本を開く音が聞こえた気もした。けれど周囲には誰もいない。胸の奥だけが、約束に遅れた人のように苦しくなった。
十分ほど座り、担当者からの電話で立ち上がった。
「忘れ物は見つかった?」
車に戻ると、そう聞かれた。
大学へ来た理由を、担当者は勘違いしていたらしい。
紬は鞄の中を見た。白地に紺の縁がついた、持ち主の分からないハンカチが入っている。
「ありませんでした」
そう答えた。
ベンチに誰かを探しに行ったのではない。何かを思い出したわけでもない。あの日そこへ辿り着いたことは、偶然としか呼べなかった。
それでも、あと二日ずれていれば、黒縁眼鏡の青年が同じ場所へ来ていた。
紬はそのことを、十年後まで知らなかった。
撮影所を出たのは、午前四時を過ぎた頃だった。車の後部座席で、マネージャーが翌週の予定を読み上げる。
「午後の番組、事故で足を悪くした役の話を聞かれると思う。リハビリの資料、目を通しておいて」
「分かりました」
「今日の現場、少し笑って。監督が、朝倉さん怒ってるのかって気にしてた」
「怒ってません」
「知ってる。でも、そう見えるから」
窓の外では、夜と朝の境目が街の色を薄くしていた。コンビニの前で店員が旗を出し、駅のシャッターが上がる。これから始まる人たちの一日を、紬は、終わらない昨日の中から眺めていた。
「止めてください」
「何か買う?」
「少し歩きたい」
マネージャーは反対した。次の現場まで四十分しかない。顔を見られれば騒ぎになる。それでも紬は、五分だけ、と頼んだ。
帽子とマスクをつけ、車を降りる。朝の空気は冷たく、初めて肺に入るもののように感じられた。
車は次の角で待つことになった。紬は歩道を一人で歩いた。誰にも名前を呼ばれず、照明の位置も気にせず、歩幅を自分で決められる。たった数分のことなのに、どこまでも行ける気がした。
横断歩道の手前で、信号が青に変わった。
白い線に足を置く。
そのとき、鞄の中でスマートフォンが鳴った。マネージャーからだろう。取り出そうとして、一度視線を下げた。
左折してきた車の音に気づいたのは、顔を上げてからだった。
車側の信号も青だった。運転手は横断歩道の手前で速度を落とさず、紬を見た瞬間にハンドルを切った。ブレーキの音が、眠気の残る街を裂いた。
避けようとした。けれど身体は、思ったほど速く動かなかった。
ぶつかる直前、なぜか大学のベンチが見えた。
木々のあいだの左端に自分がいて、右端では、黒い眼鏡の青年が本を読んでいる。顔は見えず、名前もない。現実にいた人なのか、失った記憶が作り出した人なのかを考えるより先に、白い光が視界を埋めた。
次に目を開けたとき、天井の灯りが流れていた。
「朝倉さん、分かりますか」
知らない声が名前を呼ぶ。返事をしようとしても、息しか出なかった。
手術のあと、医師から、命に別状はないと告げられた。骨盤と右脚に複数の骨折があり、元のように歩けるかどうかは、今の段階では分からない。
命はある。仕事は分からない。
その二つのあいだにある時間を、誰も説明しなかった。
事務所は病室の外にスタッフを置き、報道への対応を始めた。ニュースでは、過密日程だったのではないか、本人が信号を見ていなかったのではないかと、会ったこともない人たちが原因を決めていった。
紬はスマートフォンの電源を切った。
夜になると眠れなかった。ブレーキの音が耳の奥で繰り返され、目を閉じるたびに、車のライトが近づいてくる。
鞄は事故現場から回収され、数日後に戻ってきた。画面の割れたスマートフォン、台本、化粧道具。その底に、白いハンカチがあった。
紺の縁は薄くなっている。誰のものかも分からない布を、なぜ十年も持ち歩いていたのか、自分でも分からなかった。
ハンカチに顔を埋めると、洗剤の匂いしかしなかった。
それでも、初めて少し眠れた。
リハビリが始まり、立つこともできない現実を知った。怒りをぶつける相手がいないので、紬はそれを自分へ向けた。もっと眠っていれば。車を降りなければ。スマートフォンを見なければ。
理学療法士は、今日できることだけを見ましょう、と言った。
今日できることは、ベッドから車椅子へ移ることだった。それだけで汗が出た。
中庭へ出たのは、事故から三週間後のことだった。スタッフを病室に残し、一人でいたいと頼んだ。木々に隠れたベンチの横に車椅子を止めたとき、大学の景色が重なった。
だから、泣いた。
過去へ戻りたかったのか、今から逃げたかったのか、自分でも分からなかった。
「隣、いいですか」
声がした。
顔を上げると、帽子をかぶった痩せた男性が立っていた。眼鏡はかけていない。
それでも一瞬だけ、知っている声だと思った。
けれど十年という時間は、その一瞬を偶然の中へ押し戻すのに、充分な長さだった。




