第二十章 弟の名前
彼がもう一度目を開けることはなかった。
転院の日、紬は前の病院を出る直前まで連絡を待った。あの言葉を聞いたあと、彼がどうなったのか。看護師は、家族ではない紬に詳しいことは教えられないと言った。
「花村さん、ですよね」
病棟で呼ばれていた名字だけは覚えていた。
「同じ名字の方もいますので」
看護師は困った顔をした。紬が朝倉紬であることは、病院の誰もが知っている。それでも、それは相手の情報を受け取る権利にはならなかった。
スタッフに促されて、車に乗った。窓の外で病棟が遠ざかる。中庭の木々は建物の陰に隠れ、最後まで見えなかった。
新しい病院では、一日ごとに予定が組まれていた。歩く、曲げる、持ち上げる。次に何をするかが決まっていることは、考える時間を減らしてくれた。
それでも夜になると、病室で聞いた言葉がよみがえってきた。
――あなたがいると、本が読めないんです。
その言葉を聞いた瞬間に見えた景色は、記憶と呼ぶには短すぎた。
黒縁の眼鏡。開いた本。濡れた肩。暗い講堂。誰かの袖をつかんだ、自分の指。
場面同士はつながらず、青年の顔だけが欠けている。それでもその声は、病院の男性と同じところで、少し掠れていた。
病院の男性は、眼鏡をかけていなかった。けれど、甘いコーヒーを押し間違えたあと、彼の右手の中指が鼻梁に触れたことがある。もう存在しない眼鏡を直すような動作だった。
どうして気づかなかったのだろう、とは思えなかった。
気づくための記憶そのものが、紬にはなかった。
ただ、身体のどこかは、あの声も仕草も知っていた。甘いコーヒーを押し間違えた日も、短編集を読んでもらった日も、懐かしさだけが、理由を持たないまま残った。
紬は事務所のスタッフに頼み、大学の在籍記録を調べてもらおうとした。医学部、二年生だった可能性、名字は花村かもしれない。確かな条件は、それだけだった。
「昔の知り合いですか」
「たぶん」
「名前は?」
答えられなかった。
大学に電話することも考えたが、在籍者の情報は教えてもらえないだろう。何より、彼がまだ生きているのかを知るのが怖かった。
転院から九日目の午後、歩行訓練の途中で右脚が動かなくなった。痛みのせいではない。スタッフが持ってきたスマートフォンに、前の病院から着信があったのだ。
折り返すと、医師が名乗った。
「弟のことで、お話があります」
その瞬間、何を告げられるのかが分かった。
分かったのに、紬は「弟さんは、お元気ですか」と尋ねた。
相手が黙った。
彼が息を引き取ったのは、紬が転院した二日後の明け方だった。それを知るまでに、さらに七日が過ぎていた。
電話を切ったあと、紬は手すりから手を離した。理学療法士が身体を支え、椅子に座らせる。
「今日は、ここまでにしましょう」
紬は頷いた。
*
もう一度あの病院を訪ねたのは、電話から五日後だった。
まだ杖が必要だった。玄関から中庭までの距離が、入院していた頃より長く感じられた。
ベンチのそばに、男性が立っていた。病棟で何度か見かけた医師だ。
「朝倉さん」
彼は頭を下げ、同じベンチに座ってもよいかと尋ねた。
二人が両端に腰を下ろすと、男性は古びた本を膝に置いた。表紙を開いて取り出したものを、紬へ差し出す。
透明な板に挟まれた、銀杏の葉だった。色は褪せ、端が少し欠けている。けれど板のずれ方も、葉を挟んだ位置も、なぜか見覚えがある気がした。
「これを、どこで」
「弟の本に、挟まっていました」
紬は両手で受け取った。
記憶が一度に戻ったわけではない。透明な板のずれと、葉の欠けた位置を知っているという感覚だけがあった。理由のない懐かしさだったものに、初めて外側から証拠が与えられた。
*
女性の右側に、人ひとり分の空白がある。男性はその向こう、ベンチの右端に腰を下ろした。病院の中庭には風がなく、重なり合った枝先の葉だけが、かすかに身じろぎしている。
女性の膝には、男性から渡されたばかりのしおりが置かれていた。透明な板のあいだで、色褪せた銀杏の葉が、十年分の時間ごと押し潰されている。
「どうして、あの人は何も言わなかったんでしょう」
男性は薄い茶色の封筒を差し出した。
「それは……もしかしたら、読めば分かるかもしれません」
女性の手が伸びる。その指先が封筒に触れるより先に、頭上の木々が、遠い雨のような音を立てた。
*
封筒を受け取ったあと、紬は男性の胸元の名札に目をやった。
花村朔人。
「弟の名前は、花村伊織といいます」
花村伊織。
初めて知る名前なのに、知らない人の名前ではなかった。
十年遅れて、その名前が二人のあいだに届いた。
紬は鞄の内側の小さなポケットを開き、白いハンカチを取り出した。紺色の縁は薄くなっていた。
「返すつもりだったんです。今度会ったら、って、ずっと」
朔人はハンカチを見つめ、やがて目を閉じた。
「弟も、同じだったと思います」
彼は白衣のポケットから、もう一つ小さな封筒を出した。
中には写真が二枚入っていた。一枚は大学の入学式のものらしく、両親と兄のあいだに、黒縁眼鏡をかけた青年が立っている。笑うべきか迷っているような口元を、紬は知っている気がした。けれど、記憶だけに頼らなくてもよかった。
もう一枚は、最近撮られたものだった。大学のベンチの右端に、帽子をかぶった伊織が座っている。左側には誰もいない。膝の上で原稿を開き、右手の中指が鼻梁に触れていた。
「これを、私に見せようとしてたんですね」
「知っていたんですか」
「病室へ取りに行こうとした日に、倒れて」
朔人は写真を見た。
「こいつは、最後まで間に合わないな」
責める声ではなかった。兄だけが使える、諦めと愛情の混ざった声だった。
「いつ、私だと分かったんでしょう」
「最初からです」
紬の指が、写真の端を強くつかんだ。
「最初から?」
「事故のニュースを見る前から、弟はあなたの名前を知っていました。テレビも映画も見ていた。あなたの知らないところで、ずっと」
胸の奥に、怒りに似たものが生まれた。
「それなのに、何も言わなかった」
「私も、言えと言いました」
「だったら、どうして」
「弟の答えを、私が代わりに話すことはできません」
朔人は封筒に視線を落とした。
「私自身、あいつが正しかったとは思っていない」
医師が患者の選択を尊重するような言い方ではなかった。兄が弟に腹を立てている言葉だった。
「最後に意識が戻ったのは、いつですか」
「あなたが転院した日の明け方です。短い時間でした」
「何か言っていましたか」
朔人は、すぐには答えなかった。
「本を渡してほしい、と。あなたに、と名前を言いました」
「私の名前を?」
「朝倉紬さんに、読んでもらいたい、と」
病院で一度も呼ばれなかった名前を、伊織は最後に兄へ託していた。
紬は声を出さずに泣いた。ベンチの木目に涙が落ち、すぐに吸い込まれていく。
朔人はティッシュを差し出さなかった。白衣のポケットに手を入れかけて、やめた。その仕草が、弟に似ていた。
「父も、患者の家族が泣いているとき、何も言わずにティッシュを置く人でした」
不意に、朔人が言った。
「弟が最後に、父にそのことを話したんです」
「この原稿にも、書いてあるんですか」
「分かりません。父も私も、まだ読んでいません。封をしたまま、あなたに渡すよう言われました」
「ご家族より先に?」
「あなたが最初です」
その重さが、膝の上の封筒に加わった。
「読んだあと、どうすればいいんでしょう」
「返してくだされば、家族で読みます」
「そうじゃなくて」
言いながら、昔の自分と同じ言葉を使ったことに気づいた。
朔人も気づいたのか、少しだけ目を細めた。
「弟は、そういうとき、いつも何と言いましたか」
紬は封筒を抱えた。
「分からない、って」
「では、今はそれでいいと思います」
二人のあいだには、最後まで誰も座らなかった。




