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第七章 名前のない場所

 噂はどんどん一人で歩いていくものだ。彼女が近づけば会話が止まり、通り過ぎればまた動き出す。スマートフォンの中では、彼女を知らない人までが、彼女について何かを知っているように話していた。


 それでも彼女はベンチへ来た。


「絶対に有名になる」


 ある日、木々の隙間から差す光を眩しそうに見ながら、彼女は言った。


「私を笑った人たちが、自分から私の名前を検索するくらい」


 風に飛ばされた葉が膝へ落ちると、それを彼女はすぐに払い落とした。


「有名になったら、泣かなくて済むんですか」


 手が止まった。


「応援してくれないの」


「そういう意味じゃなくて」


「じゃあ、どういう意味?」


 僕は、彼女が有名になった姿より、泣かなくなった姿を想像しようとしたのだが、うまくできなかった。


「ここにいる間くらい、何者にもならなくていいんじゃないですか」


 彼女は長いあいだ黙っていた。


「それ、ずるいね。ここの外では、何者かにならなきゃいけないのに」


「僕は、ここの外でもなれてません」


 彼女は俯き、声を立てずに笑ったあと、目元を指で拭った。僕は見ないふりをして本を開いた。


 会うたび、彼女は自分のことを少しずつ話した。家族のこと、子どもの頃から歌うのが好きだったこと、母親の治療が変わるたび、薬の名前だけが増えていくこと、鏡の前では笑えるのに、人前ではうまく笑えなくなったこと。僕も父と母と兄のことを話し、医学部へ通いながら、医者になった自分を一度も思い描けないことを打ち明けた。


「私が受けてるオーディション、知りたくない?」


「受かったら教えてください」


「名前を聞けば、今でも検索できるよ」


「ここで聞いたことまで出てきますか」


「出てこない」


「じゃあ、いいです」


 彼女は少し考えてから頷き、それ以降、名前の話はしなくなった。


 大学の外で初めて会ったのは、駅前の書店だった。


 僕は参考書を買いに行き、医学書の階へ上がるエスカレーターで彼女を見つけた。向こうも気づいたらしく、片手を上げかけて、すぐに下ろした。大学で僕たちが知り合いではないふりをするのと同じように、ここでもそうした方がいいのか迷ったのだろう。僕は一つ上の段へ立った。


「今日は泣いてないんですね」


 振り返った彼女が、呆れた顔をする。


「会うたびに確認しないで」


「ほかに挨拶を知らないので」


「こんにちは、でいいでしょう」


「こんにちは」


 遅れて言うと、彼女も小さく返した。彼女は文芸書の階で降りたので、僕も降りると「医学書は上じゃないの」と尋ねられた。


「よく知ってますね」


「白衣の人たちがみんな上に行くから」


 店内を並んで歩いた。ベンチ以外の場所に彼女がいることが不思議だった。誰かがすれ違うたびに少し距離を置き、人がいなくなると同じ棚の前へ戻る。その繰り返しが、名前のない関係には似合っていた。


「何か探してるんですか」


「面接で、最近読んだ本を聞かれるかもしれないから」


「読んでない本を答えるんですか」


「今から読むの」


 彼女は背表紙を一つずつ見ながら歩いた。


「明るくて、賢そうに見えて、長すぎない本」


「本に対する条件じゃないですね」


「私に対する条件なの」


 何冊か選び、あらすじを読んだ。恋愛小説を手に取っては戻し、海外の古典を開いては字の小ささに閉じていた。僕は、短い物語がいくつか入った一冊を抜いた。


「これは?」


「暗そう」


「三つ目は、最後に少しだけ明るいです」


「少しだけ?」


「僕は二つ目の方が好きですけど」


 彼女は本を受け取り、三つ目の最初のページを開いた。そのまま立ち読みを始めたので、僕は隣の棚を眺めながら待っていると、十分ほどして彼女が本を閉じる。


「買う」


「もう読んだんですか」


「最初だけ。続きが気になったから」


 僕は医学書の階へ行く必要があった。彼女はレジへ向かう。その場で別れればよかったのに、互いに一度ずつ同じ方向へ足を出し、立ち止まった。


「じゃあ、また大学で」


 彼女が言った。


「どこで?」


 意地悪で聞いたわけではなかった。けれど彼女は一瞬だけ驚き、それから声を落とした。


「いつものところで」


 それだけで、僕たちには通じた。


 医学書の階で参考書を選び、会計を済ませて外へ出ると、なぜか彼女がまだ店の軒下にいた。雨が降り始めていたのだ。眼鏡のレンズに細かな水滴がつき、彼女の顔が一度ぼやけた。


「傘は?」


「持ってない」


 僕の折り畳み傘は一人用だった。広げてみると、やはり二人には小さい。


「駅までなら」


 彼女は少し迷い、傘の下へ入った。肩が触れないように互いが外側へ寄ったため、二人とも片方の袖が濡れた。


「本、濡らさないでよ」


「僕の傘です」


「選んだのはあなたでしょう」


 彼女は買った本を胸元へ抱えた。駅へ着くまでの短い道で、大学の知り合いに会わないかと何度も周囲を見た。そのたび、彼女の髪から落ちた雫が傘の内側で光った。


 駅の屋根へ入ると、僕は濡れた右肩を見た。彼女は左肩を濡らしていた。眼鏡が真っ白に曇ったので、外してシャツの裾で拭こうとすると、彼女が止めた。


「傷つくよ」


 鞄を探り、白いハンカチを出した。紺の縁がついている。


「持ってたんですね」


「返そうと思ってた」


 彼女はレンズを光へ向け、丁寧に拭いた。眼鏡を外した僕には、彼女の顔が輪郭しか見えない。


「眼鏡がないと、全然違う」


「見えないので、何を言われても分かりません」


「十年後に会っても、気づかないかも」


 冗談だった。


「十年後なら、眼鏡以外も変わっています」


「私は分かると思う」


「どうしてですか」


「本を持ってるから」


 彼女は眼鏡を返した。かけ直すと、ぼやけていた顔が一つへ戻る。


「それだけ?」


「眼鏡を、こうやって直すから」


 彼女は右手の中指で鼻梁を押す真似をした。自分にそんな癖があることを、そのとき初めて知った。


 ハンカチを返そうとしたが、レンズの水分で少し濡れている。


「洗ってから、また返す」


「僕のものなんですけど」


「だから洗うの」


 彼女は鞄へしまった。


 翌週、彼女はベンチへ来なかった。


 代わりに、講義を終えて向かったベンチの隅に、細く折った紙が挟まっていた。名前は書かれていなかったが、開くと「旧講堂、午後六時」とだけ書いてある。誰が置いたのか分からないふりはできたが、旧講堂へ僕を呼ぶ人は一人しか思い当たらなかった。


 旧講堂は煉瓦校舎の端にあり、普段は授業に使われていない。六時を過ぎると廊下の灯りが半分消え、扉には立入禁止の札が下がっていた。


 少し開いた隙間から中へ入ると、舞台の中央に彼女がいた。客席の灯りは消え、非常口の緑だけが暗闇に浮かんでいる。舞台には古いピアノと、譜面台が一つ置かれていた。


「遅い」


「六時ちょうどです」


「来ないかと思った」


「名前もない紙だったので」


 彼女は、そうだった、と言って笑った。


「ここ、入っていいんですか」


「よくない。見つかったら、迷ったって言って」


「舞台の上まで?」


「方向音痴なんです、って」


 僕は客席の中央へ座った。眼鏡を外してレンズを拭き、かけ直す。そのあいだ、彼女は何度も喉を鳴らし、手を握ったり開いたりしていた。


「何をするんですか」


「歌う」


「どうして僕を?」


「誰もいないと練習にならないから」


「一人なら、誰かほかに」


「あなたがいいの」


 その言葉のあと、彼女はすぐに譜面へ顔を向けた。


「知ってる人だと、何を言われるか分かるでしょう。あなたは分からないから」


 説明されても、先ほどの一文だけが頭の中に残った。


 ピアノの伴奏は録音で、スマートフォンから流れる音が、広い講堂では薄く聞こえる。


 彼女が歌い始めた。


 ベンチで話す声より高く、けれどテレビで聞くような作られた明るさはない。知らない町へ行く人が、まだ見えない景色のことを歌っていた。途中で一度音を外し、歌い直すかと思ったが、そのまま最後まで続けた。


 曲が終わっても、僕は拍手をしなかった。


「何か言って」


「拍手した方がよかったですか」


「今さらしないで」


 彼女は舞台の端へ座り、足を客席側へ垂らした。


「どうだった?」


「歌のことは分かりません」


「音を外したのは分かるでしょう」


「そこは分かりました」


「正直すぎる」


「でも、止めなかったのはよかったと思います」


 彼女の足が揺れるのをやめた。


「普通は、音程とか声量とか言うんじゃない?」


「分からないので。ただ、途中で失敗したのに、最後は知らない町へちゃんと着いた感じがしました」


 しばらく返事がなかった。


「歌詞、ちゃんと聞いてたんだ」


「聞くために呼んだんでしょう」


 彼女は俯き、靴の先を見た。


「前に、練習を録られたの」


 大学の空き教室で歌っていたところを、友人が面白半分に撮影した。うまく歌えなかった部分だけが切り取られ、知り合いのあいだで送られた。オーディションを受けていることが広まったのも、その動画からだった。


「歌手気取りって書かれてた。音も外してるのに、って」


「今も外してました」


 彼女が睨む。


「でも、最後まで聞けば、それだけじゃなかったです」


「動画を見る人は、最後まで見ない」


「本も、途中の一文だけなら、別の話にできます」


「だから何?」


「最後まで聞く人のために歌えばいいんじゃないですか」


 言い切ってから、無責任な励ましに聞こえたかもしれないと思った。


 彼女は舞台から降り、僕の二つ隣の席へ座った。一つ分の空席が、ベンチと同じように二人のあいだに残る。


「もう一回、聞いてくれる?」


「音を外さないように?」


「外しても、最後まで」


 彼女は舞台へ戻り、同じ曲を歌った。二度目は途中で止まった。廊下から鍵の音が聞こえ、警備員の声が近づいてくる。スマートフォンと譜面をつかみ、二人で舞台袖へ隠れた。古い幕の裏は埃っぽく、並んで立つと肩が触れた。


 扉が開き、懐中電灯の光が客席を横切る。


 彼女が笑いそうになり、口元を手で押さえ、僕も咳を堪えた。警備員は舞台の前まで来たが、曲の止まったスマートフォンには気づかず、扉を閉めて去った。


 足音が遠ざかるまで、動けなかった。


 暗闇で、彼女の指が僕の袖をつかんでいる。書店の前で傘へ入ったときより近かった。


「行った?」


 耳元で聞かれ、頷いた。幕の外へ出ると彼女はすぐに手を離し、客席へ戻らず、裏口から外へ出た。秋の夜気が、埃のついた服を冷やす。二人で走り、煉瓦校舎の角まで来てから立ち止まった。


「最後まで歌えなかった」


 彼女は息を切らして笑った。


「警備員のせいです」


「また聞いて」


「捕まらない場所で」


「ベンチで歌ったら、ほかの人に見つかるでしょう」


「ほとんど来ませんよ」


「あなたが来る」


 それなら一人ではない、と彼女は言った。


 駅へ向かう道で、彼女は小さな声で続きを歌った。伴奏もなく、何度か音程を探しながら、それでも最後の言葉まで歌い切った。


 僕は感想を言わなかったし、彼女も求めなかった。


 改札で別れ、電車へ乗ってから、最後の旋律が耳に残っていることに気づいた。その旋律は翌朝になっても消えなかった。


 その後、彼女が大勢の前で何度歌っても、僕にとって最初の歌は、誰もいない夜道で最後まで歌った、あの一曲だった。


 十月の終わり、銀杏の葉が黄色くなり始めた頃、彼女が細長いものを差し出した。透明な板のあいだに、前の週に大学で拾ったという小さな葉が挟まれている。


「ハンカチのお礼」


「ハンカチは?」


「今度、持ってくる」


 彼女は悪びれず、何度目かの同じ言葉を口にした。


「これ、作ったんですか」


「売ってるように見える?」


 葉は少し曲がり、透明な板の端も揃っていなかった。「見えません」


「そこは嘘でも見えるって言うところでしょ」


「すみません」


 彼女は笑った。


「本って、途中で閉じてもしおりがあれば続きを読めるでしょう」


 受け取って、読んでいた本へ挟む。


「すぐ使うんだ」


「しおりなので」


「ありがとうは?」


「ありがとうございます」


 彼女は満足そうに頷いた。その日は、しおりを挟んだ場所から一ページも進まなかった。


 十一月の終わり、彼女がベンチへ来たのは、図書館の閉館を知らせる音楽が流れたあとだった。木々のあいだはすでに暗く、煉瓦の壁に取りつけられた外灯だけが、湿った地面を照らしている。


「まだいた」


 息を切らした彼女は、安心したように言った。


「約束してませんけど」


「分かってる」


 僕は眼鏡を外し、曇ったレンズをシャツの裾で拭いた。暗がりでは彼女の輪郭がぼやけ、白い息だけが近くに浮かんだ。


「お願いがあるの」


 鞄から数枚の紙を取り出す。次の選考で渡された台本だという。短い場面の中で、故郷を出る娘が父親へ別れを告げる。彼女は娘の台詞に蛍光ペンで線を引いていた。


「これが通れば、最終」


「相手のところ、読んでくれない?」


「演技なんてできません」


「読めばいいの。棒読みでいいから」


 眼鏡をかけ直し、紙を受け取った。字を追うだけなら、本と変わらないはずだったからだ。


 最初の台詞を読む。


「お前に、外の世界で何ができる」


 彼女は一度目を閉じてから、顔を上げた。


「何もできないかもしれない。でも、ここにいたら、本当に何もできないままなの」


 ふだんの声ではなかった。高さも速さも大きくは変わらないのに、見えない誰かへ向けられている。僕が次の台詞を読むまで、彼女はその人を見つめ続けた。


 二ページ目の途中で止められた。


「そこ、もう少し怒って」


「棒読みでいいと言ったでしょう」


「棒にも種類があるの」


「知りません」


 もう一度、最初から読んだ。声を大きくすると、今度は「怒鳴るんじゃなくて、心配して」と注文された。


「難しいですね」


「人間だからね」


「僕も人間です」


「今のところは」


 三度目、父親は娘を引き止めず、ただ名前を呼ぶ。僕は台本にある空欄を見た。


「ここ、名前がないです」


「役名を入れるんだって」


 彼女は役名を教えた。僕がそれを呼ぶと、返事をするまでのあいだが、前の二度より長かった。


「どうでしたか」


「分かりません」


「そればっかり」


「審査員じゃないので」


 彼女は台本を取り返し、鞄へ入れた。


「じゃあ、見てて何か思った?」


 さっきまでここにいた彼女と、台詞を話していた人が重ならない。そう答えると、彼女は「それなら、少しはできてたのかも」と呟いた。


 帰ろうとして立ち上がった彼女が、木の根に足を取られて咄嗟に腕をつかむ。細いと思っていた身体には、転ばないための力があり、彼女も僕の袖をつかんだ。


 すぐに離れることができなかった。


「眼鏡、ずれてる」


 彼女が言った。


 手を離し眼鏡を直すと、彼女も袖から指を離した。


「台本の人より、今の方が驚いた顔してた」


「転びそうだったので」


「私じゃなくて、あなたが」


 彼女は笑いながら、木々の向こうへ歩き出した。僕は外灯の下へ落ちた台本の一枚を拾い、追いかけた。


 裏門で別れる前、彼女が言った。


「受かったら、今日のこと思い出すかも」


「僕の棒読みに感謝してください」


「落ちたら?」


 その問いだけは、台本の台詞より小さかった。


「三つ目の物語を読めばいいです」


「どうして?」


「最後に少しだけ明るいから」


 彼女は何も言わず、買った本の入った鞄を抱き直した。


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