第六章 父の病院
その週の日曜日、母に頼まれて父の病院へ着替えを届けた。
当直室の場所は知っていた。小学生の頃、父が帰らない夜に熱を出し、母に連れられて来たことがある。廊下の匂いも、自動販売機の並びも記憶にあったが、壁の色だけが新しくなっていた。
受付で名前を告げると、若い看護師がすぐに表情を変えた。
「先生の息子さんですか」
その言葉のあとには、たいてい同じものが続く。お父さまにはいつもお世話になっています。お兄さまも優秀だと伺っています。そして、あなたも医学部なんですよね。
その日も順番はほとんど変わらなかった。
父は病室にいた。白衣の背中しか見えず、僕は廊下で待った。ベッドに横たわる高齢男性の家族へ、父はゆっくり説明をしていた。病気の名前、これから起こりうること、できることと、できないこと。食卓で僕へ向ける声より低く、相手が言葉を探しているあいだは決して先を急がなかった。
家族の一人が泣き出した。父は慰めず、黙って箱からティッシュを抜き、手の届くところへ置いた。知らない人の悲しみの前では、父はこんなふうに待てるのだと思った。
説明を終えて廊下へ出てきた父は、僕の紙袋を見るなり、「遅かったな」と言った。
「講義じゃないから」
「休日でも時間は守れ」
紙袋を渡す。
「今の患者さん、長いの」
父は病室の扉を一度振り返った。
「患者のことを廊下で聞くな」
「そうじゃなくて」
「なら何だ」
うまく説明できなかった。家族が泣きやむまで、どうして黙っていられたのか。僕が進路の話をしようとすると、なぜ答えを待てないのか。二つを並べて尋ねれば、父を責める言葉にしかならない気がした。
「何でもない」
「解剖実習の予習は進んでいるのか」
結局、その話になったが、父は僕の返事を聞く前に歩き出した。白衣の裾が廊下の角へ消えていく。追いかけようと思えば追いつけたが、紙袋を渡した手をポケットへ入れ、反対方向へ向かった。
病院の裏口を出ると、小さな庭があった。患者らしい女性と家族がベンチに座り、紙コップの飲み物を分け合っている。僕は少し離れた場所で本を開いた。
数ページ読んだところで、スマートフォンが震えた。兄からだった。
――病院にいるなら、五分だけ待てるか。
兄は手術着の上に上着を羽織って現れた。髪には帽子をかぶっていた跡がつき、目の下が薄く青い。
「父さんに会った?」
「着替えを渡した」
「何か言われたか」
「解剖実習の予習」
兄は紙コップのコーヒーを二つ買い、一つを僕へ渡した。砂糖もミルクも入っていなかった。
「嫌なら、嫌だと言えばいい」
「何が」
「医者になるのが」
僕は熱いコーヒーへ口をつけたが、苦くてすぐに離す。
「兄さんは、嫌じゃなかったの」
「嫌な日はある」
「そういうことじゃなくて」
「分かってる。でも、俺にはそれしか答えられない」
兄は腕時計を見た。五分が終わろうとしていた。
「父さんのために医者になったつもりはない。ただ、父さんの影響を受けなかったとも言えない。それでいいかどうかは、自分で決めたんだよ」
「僕は、決めた覚えがない」
「なら、まだ決めてないんだろう」
兄は空の紙コップを捨て、病院へ戻っていった。僕のコーヒーはほとんど残っていた。冷めるまで待って飲んでみたが、やはり苦かった。
月曜日、ベンチで彼女にその話をした。父が患者の家族へティッシュを差し出したことだけを、ほかの部分から切り離して。
「いいお医者さんなんだね」
「たぶん」
「嫌いなの?」
「父親としては、よく分かりません」
「お医者さんとしては?」
病室の前で見た父の横顔を思い出した。
「たぶん、尊敬しています」
彼女は、そう、と言って木々を見上げた。僕が父について、尊敬という言葉を使ったのは初めてだった。




