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第五章 何者

「そんなに面白いの」


 彼女が本を覗き込んだのは、名前について話した数日後の午後だった。


「まだ分かりません」


「ずっと読んでるのに?」


「この本が面白いかは、最後まで読まないと」


「その本じゃなくて、本そのものの話」


 彼女は僕の鞄を見た。文庫本が二冊入っている。


「どうして、そんなに読むの」


 僕はページを閉じると、銀杏の葉の影が文字の上から消えた。


「本を読んでいるときだけ、何者にでもなれる気がするから」


「何者にでも?」


「今の自分じゃない誰かに」


 彼女は膝の上で両手を組み直した。


「私は逆かも。何者かになりたい。今はまだ、誰でもないから」


 遠くで講義の終わりを知らせる鐘が鳴り、彼女はスマートフォンの画面を確かめ、ベンチから立ち上がる。


「何になるんですか」


「まだ内緒」


「そうですか」


「興味なさそう」


「あります」


 彼女がこちらを見たので、本を開いた。


「少しは」



 数日後、講義棟の裏で彼女を見かけた。三人の女子学生に囲まれており、通り過ぎようとした僕の耳へ、途切れ途切れに声が届く。


 「そんなものまだ受けてたんだ。自分は特別だとか思ってるわけ?」


 一人がスマートフォンの画面を突きつけた。そこに何が書かれているかまでは見えなかったが、彼女の顔だけは見えた。そして、彼女も僕を見た。


 足が止まったが、誰かがこちらを向きそうになり、僕はそのまま通り過ぎた。


 二日後、ベンチにいた彼女は、前を向いたまま言った。


「見てたよね」


 二度目だった。


「はい」


「何も聞かないの」


「聞いてほしいんですか」


 靴の先についた土を見ながら、彼女は「分からない」と言った。


「じゃあ、話さなくていいです」


 本を開く。一行目を読む前に、彼女が言った。


「アイドルのオーディションを受けてるの」


「それで、あんなことを?」


「友達にも言わなかった。笑われると思ったから。受かったら応援する、落ちたら今までどおり友達でいてあげるって言われた」


 口元だけで笑い、「どっちも嫌だった」と続ける。


「お母さんには」


「言ってない」


 彼女は自分の靴の先を見た。


「言ったら、それまで元気でいて、って頼むのと同じになるから」


 前に聞いた言葉だった。彼女はそれを、母親にも、たぶん自分にも言わないことに決めていた。頑張れと言うのは簡単だったが、それはたぶん、彼女をベンチの外へ押し戻す言葉なのだろう。あの日、立ち止まれなかったことを謝るのも、僕だけが楽になるように思えた。


「今日は泣かないんですね」


 彼女がこちらを向く。


「泣いた方がよかった?」


「どちらでも」


 一瞬きょとんとしてから、彼女は声を立てて笑った。

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