第四章 名前のない身体
解剖実習が始まったのは、梅雨に入る前だった。
白衣の上からエプロンと手袋をつけ、髪を覆う。眼鏡の内側が曇り、何度拭いても視界の端に白い膜が残った。
実習室へ入る前、教授は献体について話した。ここにいるのは教材ではなく、本人の意思と家族の同意によって身体を預けてくれた人たちであること。だから決して敬意を失わないこと。実習室へ許可されていないものを持ち込まないこと。
台の上の身体には、番号がつけられていた。もちろん名前は知らされない。
同じ班の学生は、緊張を隠すために冗談を言い、僕もそれに笑おうとしたが声にならなかった。
白い布が外される。骨、筋肉、血管、神経。人の身体について、教科書で何度も見たはずだったが、目の前の身体には、図にはない爪の形や、小さな傷、日に焼けた腕があった。
この人にも、食卓の席があったのだろう。誰かから名前を呼ばれ、本を読み、眠れない夜があったかもしれない。
しかし、それを知ることはできない。 実習の手順を追ううち、考えないようにした。
名称を確認し、器具を渡し、記録を取る。医学は、知らない人の身体を、誰にでも共通する構造へ変えることで学ばれていく。
終わったあと、昼食を食べられなかった。ベンチへ行くと、そこにいた彼女が僕の顔を見るなり「ひどい顔」と言った。
右端へ座ったが、本を開く気になれなかった。
「何かあった?」 初めて、彼女の方から尋ねた。
「実習で、人の身体を見ました」
「お医者さんの?」
「解剖です」
彼女は返す言葉を失い、組んだ指を見た。
「怖かった?」
「怖いと言っていいのか、分かりません」
「どうして」
「学ぶために見たので」
「学ぶ人は、怖がっちゃいけないの?」
そういう決まりはないし、教授もそんなことは言わなかった。ただ、父や兄なら平静でいられる気がしていたのだ。
「名前がなかったんです」
「誰の?」
「献体の。番号だけでした」
「本当はあるでしょう」
「あります。でも、僕たちは知らない」
彼女は木々の間から見える空を見上げた。
「名前を知らなくても、その人だったことは変わらないんじゃない?」
「そうですけど」
「私たちも知らないでしょう」
二人の名前のことだった。
「でも、私が私で、あなたがあなたなのは変わらない」
彼女は自分の両手へ目を落とした。
「名前って、ほかの人が呼ぶためにあるのかもね」
「自分のためじゃなく?」
「一人だったら、名前はいらないでしょう」
その考えは少し寂しかった。
「じゃあ、忘れられたら、名前はなくなるんですか」
「急に難しいこと聞くね」
彼女はしばらく考えた。
「誰か一人が覚えてたら、なくならないんじゃない」
「その人もいなくなったら?」
「本に書く」
冗談のように言い、僕の鞄を指した。
「あなた、本が好きなんでしょう」
「読む方です」
「じゃあ、誰かが書かないと」
そのときは、冗談として聞いた。誰かが書かないと、という言葉が自分に向けられていたのだと気づくのは、ずっとあとになる。
その日、ベンチで本を開かなかった代わりに、彼女が子どもの頃の話をした。
歌を始めたのは、母親に連れられた地域の合唱教室だったこと。発表会で一度だけ独唱を任され、緊張して最初の言葉を忘れたこと。客席の母親が口を動かし、それを見て続きを歌えたこと。
「舞台に出る前に、名前を呼ばれたの。フルネームで」
彼女は膝の上で指を組み直した。
「怖かった。でも、私の番だって分かった」
「呼ばれなかったら、どうしてましたか」
「たぶん、ずっと袖にいた」
彼女は笑った。
「名前って、呼ばれたら出ていくためにあるのかもね」
「お母さんは、今も聞きに来るんですか」
彼女はすぐに答えなかった。
「今は病院にいる。去年、がんが再発してから、入ったり出たり」
言葉の重さに合う返事を探していると、彼女が先に笑った。
「そういう顔をされるから、あまり言わないの」
僕は表情を戻そうとしたが、自分がどんな顔をしているのか分からなかった。
「母は、もう一度、私が舞台に立つところを見たいって言う」
「見せに行けばいいんじゃないですか」
「じゃあ、それまで元気でいて、って頼むの?」
答えられなかった。 励ます言葉になるのか、病気でいることを責める言葉になるのか、彼女にも分からないのだという。だから何も約束せず、何も決まっていないふりをしている、と。
その日、彼女が最初にベンチで泣いていた理由を、僕は一つだけ知った。けれど理由は、たぶん一つではなかった。
遠くで講義の鐘が鳴った。木々の向こうで、誰かが誰かの名前を呼んでいる。僕たちのものではなかった。
「まだ、呼ばれてないね」
彼女はそう言って、ベンチへ座り直した。 僕もしばらく座ったままでいた。




