↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
4/21

第三章 ハンカチ

 昼過ぎまで降っていた雨はやんでいたが、木の下だけは、葉先に残った雫が遅れて落ちていた。彼女は傘を持っていなかったらしく、髪の先と白い靴が濡れている。いつもより深く俯き、袖口で何度も目元を拭っていた。


 僕は同じ段落を三度読み、四度目に入る前に本を閉じた。


「あの」


 彼女が顔を上げる。目が赤かった。


 そこから先が出てこなかった。大丈夫ですか、はやはり違う気がしたし、何があったんですか、と聞けるほど僕たちは近くなかった。鞄の内側を探り、白地に紺の縁がついたハンカチを取り出す。


「これ」


 差し出した手と僕の顔を、彼女は交互に見た。受け取られなければどうすればいいのか、そこまで考えていなかった。


 やがて彼女の指が布の端をつまんだ。「ありがとう」と聞こえた気がしたが、僕は鞄を閉じ、逃げるようにその場を離れた。


 帰宅してから、あれなら黙って隣にいた方がましだったのではないか、せめてもう一言くらい言えなかったのかと、渡してしまったハンカチのことばかり考えた。兄から電話がかかってきたが、画面に表示された名前が消えるまで眺めて、折り返さなかった。


 本を開く。そこには、ハンカチを渡す前から読み続けているページがあった。


 彼女は翌週も、その次の週も現れなかった。ハンカチなら代わりはいくらでもある。そう思って、白地に灰色の縁がついたものを買った。


 三週間目の水曜日、ベンチへ向かうと、彼女は座らずに待っていた。


「前、見てたよね」


 挨拶より先に言われ、僕は反射的に謝った。


「どうして謝るの」


「泣いてるところを見たから」


「そっちじゃなくて」


 彼女はベンチを指した。「いつも、ここで読んでたよね」


 頷くと、彼女は少し気まずそうに左端へ座った。


「知ってた。何度か見たことがあったから。でも、ここなら誰にも見つからないと思ったの。邪魔してごめん」


「僕の場所じゃないです」


「顔には、そう書いてあったけど」


 言い返せずにいると、彼女は声を立てて笑った。泣いている姿から知った人が、こんなふうに笑うとは思っていなかった。


「ハンカチ、洗ったんだけど、今日持ってくるの忘れた」


「いつでもいいです」


 口にしてから、それが次に会うことを前提にした言い方だと気づいた。彼女も同じことを思ったらしく、ほんの少し目を細める。


「じゃあ、今度」


 名前は聞かなかった。彼女も聞かなかった。必要になれば、そのときに聞けばいいと思っていた。


 翌週、学食で彼女を見かけた。


 昼の食堂は、椅子を引く音と話し声が天井の下で混ざり、どの言葉も最後まで聞き取れないほど騒がしかった。彼女は窓際の四人掛けの席に一人で座り、ほとんど手をつけていないうどんを箸でほどいている。


 空いている席はほかにもあった。僕はトレーを持ったまま通り過ぎかけ、彼女の斜め前にいる三人の学生へ気づいた。笑い声が上がるたび、視線だけが彼女の方へ滑ってくる。スマートフォンを伏せる手つきが、いかにも何かを隠していた。


 彼女も僕に気づいた。けれどベンチで会うときの顔はせず、知らない人を見るように目を逸らした。


 僕は二つ先の席へ座った。


 席を選んだ理由を自分へ説明する必要はなかった。そこがたまたま空いていた。それだけの顔をしてカレーを食べ始める。


 斜め前から、わざと抑えた声が聞こえた。


「あれ、また一人じゃない?」


「声かけてあげれば」


「忙しい人だから」


 笑い声が続いた。


 彼女はうどんを食べるのをやめ、トレーを持って立った。返却口へ向かうには、三人の横を通らなければならない。僕は残っていた水を飲み干し、ほとんど同時に席を立った。


 前を歩く彼女の背中と、後ろからついていく僕。傍目には偶然にしか見えなかったと思う。三人の横を通るとき、笑い声が一度止まり、僕たちが離れるとまた始まった。


 食堂を出たところで、彼女が振り返った。


「何も言わないんだ」


「何をですか」


「知り合いみたいに座るのかと思った」


「知り合いなんですか、僕たち」


 自分で言ってから、ひどい言い方に聞こえた。彼女も少しだけ眉を動かした。


「そうだね。名前も知らないし」


「そういう意味じゃなくて」


 言い直す言葉を探しているうちに、彼女が先に歩き出した。二歩遅れて隣へ並ぶ。


「あそこで話しかけたら、あの人たちにベンチのことまで知られるかもしれないと思ったんです」


 足が止まった。


「だから、知り合いじゃないふりをしたの?」


「はい」


「あの席に座ったのは?」


「カレーを食べるためです」


 彼女は僕の空になった皿を思い出すように一度目を伏せ、それから笑った。


 その日の午後、ベンチへ行くと彼女はもう左端に座っていた。僕が右端へ腰を下ろすと、紙袋に入ったパンを半分に割って差し出した。


「うどん、食べられなかったから」


「僕はカレーを食べました」


「知ってる。ずいぶん急いで」


 断る理由が見つからず、半分を受け取った。中には甘い小豆が入っていた。


「苦手?」


「嫌いじゃないです」


「その言い方、便利だね」


 彼女は自分の分を一口食べた。


「好きって言わなくて済むから」


 何の話をされているのか分からないふりをして、僕もパンを食べた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。