第一部 特等席 第一章 二年目の春
医者になりたいと思ったことは、一度もなかった。だからといって、医者にならない自分を想像したこともなかった。
二十歳になったばかりだった。
同級生の中には、入学した時点で希望する診療科まで決めている人もいた。幼い頃に家族を病気で亡くした人、手術を受けて医師へ憧れた人、研究したい病気の名前をすでに持っている人。それぞれに、ここへ来るまでの物語があった。
僕にも、周囲から見れば分かりやすい理由がある。医師の父と兄。子どもの頃から見慣れた白衣。
けれど自分の中を探すと、きっかけと呼べる一日が見つからなかった。
人生を決めるものは、大きな出来事だと思っていた。病気を治してもらったとか、誰かの死に立ち会ったとか、忘れられない言葉をもらったとか。だから、何もない自分は、父が敷いた道を歩いているだけなのだと思った。
実際に人生を変えるものは、もっと小さく、見落としやすい。
その春の僕は、まだそれを知らなかった。
父が医者で、兄も医者。そういう家庭で育つと、将来は選ぶものというより、食卓の自分の席のように、初めから用意されているものになる。そこへ座る理由を尋ねる人はいないし、座らない理由だけが必要になる。
「来月から、解剖の実習が始まるんでしょう」
母は味噌汁を置きながら、僕ではなく、僕の少し先にあるカレンダーを見て話しかけた。
「たぶん」
「もう二年生なんだから、たぶんじゃ困るわよ」
新聞の向こうで、父が息をつく。
「兄さんは、その頃には自分で先のことを考えていた」
兄は兄だよ、と返すと、新聞が一度だけ鳴った。母は聞こえなかったふりをして、焼き魚の皿を僕と父のあいだへ置いた。
玄関で靴を履いていると、母が弁当を持って追ってきた。いらないと言ったはずなのに、という文句をなんとか飲み込んで受け取り、鞄へ押し込む。弁当箱の角が文庫本に当たり、母の視線もそこへ落ちたが、何も言わなかった。
大学には、蔦の這う煉瓦造りの校舎があった。窓を縁取る白い石はところどころ黒ずみ、その向こうに、光を弾く新しい講義棟と研究棟が並んでいる。父たちは古い方を母校と呼び、僕たちは新しい方で、医者になるための知識を叩き込んでいた。
昼休みになると教室を出て、旧図書館の脇を抜けた。裏門へ続く細い道からさらに外れると、煉瓦の壁と雑木林のあいだに、古い木製のベンチが一つだけ置かれている。どこへ行くにも遠回りになる場所なので、人が来ることはほとんどなかった。
僕はいつも左端に座り、母の弁当を食べてから本を開いた。
最初の一冊をくれたのは兄だった。小学生の頃、父に叱られて部屋へ閉じこもっていた夜、扉の前に黙って置かれていた。表紙を開くと、兄の字で、眠れないときに読むといい、とだけ書いてあった。
その夜、僕は朝まで本を読んだ。読み終えても、父は父のままで、兄は何でもよくできる兄のままだったが、夜のあいだだけは彼らの息子でも弟でもない人間として、別の町を歩くことができた。それから、本は何かを得るためというより、自分ではない何者かの世界を楽しむために読むものになった。
午後の講義を終えた僕は、ずり落ちた黒縁の眼鏡を指で押し上げ、その日もいつものようにいなくなるつもりで木々のあいだへ入っていった。
目に入ってきたのは、白いブラウスだった。
僕が座るはずだった左端に、女の子がいた。俯いた頬を伝う、ひと筋の涙。
声をかける言葉を見つけられないまま、僕は来た道を引き返した。
教授が黒板に心臓の断面を描いていく。四つの部屋を区切る線は妙に几帳面で、血液の流れる方向を示す矢印だけが勢いよく曲がっている。僕はノートに同じ図を写しながら、昨日見た白いブラウスの女の子を思い出していた。
「そこ、逆じゃないか」
隣の学生に言われ、見ると、僕の描いた血流の矢印は、ありえない方向を向いていた。消しゴムをかけると紙が薄く毛羽立った。
講義が終わっても、しばらく席を立てなかった。今日は来ていないだろうと思いながら、旧図書館の方角へ目を向ける。窓から見えるのは煉瓦の壁と、その手前で揺れる梢だけだった。
知らない人が泣いていた。ただそれだけのことだった。悲しい理由も、名前も、もう会うかどうかも知らない。そう考えれば考えるほど、僕が何も言わなかったことだけが、妙に明確な形で残った。
帰りの電車で本を開いた。物語の主人公は、駅で出会った旅人を見送ろうとしている。読み進めればすぐに別の場面へ移るはずなのに、僕はその場面から先へ進めなかった。
――呼び止めなかったことは、別れたことと同じだろうか。
ページのどこにも、そんな一文は書かれていなかったが、白い袖の残像が、物語の余白に勝手にその問いを書き足していた。




