第9話 早すぎた到着
シェアハウス「シェアスマイル」。
日差しが差し込む広々としたリビングには、オーブンから漂う無添加のバタークッキーの甘い香りが満ちていた。
ダイニングテーブルでノートパソコンを開いていた藤原琴音が、中指でスッと眼鏡のブリッジを押し上げ、キッチンに立つ神崎結衣に声をかけた。
「結衣さん、朗報です。空き部屋の入居希望者から、二件も申し込みのメールが届きましたよ」
「本当!? すごいわ、どんな人たち?」
結衣が嬉しそうにエプロンで手を拭いながら駆け寄る。ソファでくつろいでいた遠藤美月と、夜勤明けの五十嵐葵も身を乗り出した。
「一件目は『影森若菜』さん。そしてもう一件が、『橘克実』さんです」
「わぁ、若菜ちゃんって絶対かわいいって感じの響き! 春から上京してきた大学生かな?」
美月が人差し指と中指をシャキシャキと鳴らす癖を見せながら目を輝かせる。
「『橘克実』さん……こっちも素敵な名前だね」と葵が頷いた。「字面からして、仕事ができるシュッとした綺麗なお姉さんか、物静かで優しい文学少女って感じがする」
「ええ。名付け親さんの知性も感じて、教養の高さが窺えます。きっと私たちの輪にふさわしい、協調性のある素晴らしい方でしょう」
琴音も赤ペンを胸ポケットに差したまま、満足げに微笑んだ。彼女たちは無邪気にも、自分たちと同年代の明るく爽やかな若者がやって来るのだと完全に信じ込んでいた。
「せっかくだから、お二人とも同じ日に見学に来てもらおうよ。ただ、しっかりお互いの相性……フィーリングを確かめたいから、少しだけ時間をずらして呼びましょうか」
結衣の提案に、全員が賛成した。
「そうですね。では、若菜さんを十四時に。克実さんを少しずらして、十四時二十分にお呼びするように返信しておきます」
「うん! 当日までに、玄関の新しい下駄箱も可愛く飾り付けておかないとね!」
結衣が玄関ホールへ視線を向ける。そこには、女性陣が規格外の薄い板と短いネジで組み上げた、重心の狂った特大の下駄箱が誇らしげに鎮座していた。一番上には重い観葉植物と鉄アレイが置かれ、わずかな衝撃で崩壊する最悪の凶器となっていることなど露知らず、女性たちは新しい仲間との眩しい出会いに胸を躍らせていた。
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そして、内見の当日。
春の柔らかな陽光が降り注ぐ住宅街を、橘克実は重い足取りで歩いていた。
彼が身にまとっているのは、かつてコンシェルジュとして一流ホテルに立っていた頃の、唯一手元に残った高級スーツだった。しかし、過労と心労によって一回り以上もげっそりと痩せ細ってしまった今の彼にはサイズが全く合わず、肩幅は落ち、生地はヨレヨレになっている。
クリーニングに出す余裕などあるはずもなく、漫画喫茶の備え付けの消臭スプレーを大量に吹きかけただけの、ひどく惨めな姿だった。
シェアハウス「シェアスマイル」の可愛らしい看板の前に到着した克実は、立ち止まって自身の腕時計に目を落とした。
時刻は、十三時五十分。
指定された「十四時二十分」からは、三十分も早い到着だった。
「……面接の三十分前。私のような社会の底辺が、高潔な皆様の貴重なお時間を頂戴するのですから、これでも遅いくらいです」
克実は老眼鏡の位置を正し、小さく息を吐いた。
ホテルマンとしての職業病とも言える異常な生真面目さと、「相手を絶対に待たせてはならない」という強迫観念が、彼を予定よりも遥かに早くこの場所へと導いてしまったのだ。
十四時予定の「影森若菜」よりも先に到着してしまったことなど、知る由もなく。
「私は決して出しゃばらず、皆様の視界を汚さない透明な『機能』として、この身を捧げる覚悟を伝えなければ。……さあ、参りましょう」
克実は深く一礼してから敷地に入り、玄関のインターホンを静かに押した。
ピンポーン、と明るい電子音がハウス内に響き渡る。
リビングで手作りのウェルカムティーを用意していた女性陣が、弾かれたように顔を見合わせた。
「あ、来たわ! 十四時の若菜ちゃんよね!」
「楽しみー! 私が開けるね!」
結衣がエプロンを外し、満面の笑みを浮かべて玄関ホールへと駆け出す。奥の部屋から琴音や美月、葵たちもワクワクした足取りで後に続いた。
手作りのグラグラな下駄箱を横目に、結衣が勢いよく玄関の重厚なドアをガチャリと開け放つ。
「初めまして! シェアスマイルへようこ——」
結衣の明るい歓迎の声は、途中で不自然に途切れた。
「——お忙しい中、私のような者のためにお時間を割いていただき、誠に申し訳ございません」
ドアの向こうにいたのは、地面に額が擦れんばかりの九十度の深いお辞儀をした人物だった。
ゆっくりと頭を上げたその顔には、極端に卑屈で、一切の生気を感じさせない空虚な笑みが張り付いている。
ヨレヨレのスーツを着た、小柄でくたびれ果てた三十八歳のおっさん。奥の瞳は、まるで主人を待つ捨て犬のように、純粋な服従と自己卑下だけで構成されていた。
「本日、内見のお約束を頂戴いたしました。橘克実と申します」
深く温かみのある、無駄に完璧な美声が玄関ホールに響き渡った。
「え……?」
「……ええ!?」
結衣の笑顔が凍りつき、背後から顔を覗かせていた琴音や美月、葵たちも完全に息を呑んだ。
綺麗なお姉さんか、文学少女。そんな彼女たちの無邪気な想像は、ドアを開けた瞬間に木端微塵に粉砕された。
華やかな美しいシェアハウスの入り口で、底知れぬ絶望を抱えた「異物」と、光あふれる日常を生きる「女性たち」の運命が、ついに最悪の形で交差したのだった。




