第10話 異物の来訪
春の柔らかな陽光が降り注ぐ玄関ホールで、神崎結衣の笑顔は完全に凍りついていた。
明るく爽やかな若者が訪れるという期待は、重厚なドアを開けた瞬間に木端微塵に粉砕された。そこに立っていたのは、ヨレヨレのスーツを着た、小柄でくたびれ果てた三十八歳のおっさんだったからだ。
「本日、内見のお約束を頂戴いたしました。橘克実と申します。至らぬ点が多々あるとは思いますが、どうぞよろしくお願い申し上げます」
地面に額が擦れんばかりの深いお辞儀から顔を上げた克実が、深く温かみのある声で名乗る。その極端に卑屈で空虚な笑みを浮かべた顔に、結衣の背後から顔を覗かせていた藤原琴音、遠藤美月、五十嵐葵の三人も完全に言葉を失っていた。
数秒前までワクワクした足取りで玄関に集まっていた彼女たちの表情から、スッと感情が消え失せる。代わりに浮かび上がったのは、「ありえない」という明確な嫌悪と戸惑いの色だった。
琴音は中指で眼鏡のブリッジを押し上げることも忘れ、美月はハサミを鳴らすような指の動きを止め、葵は信じられないものを見るような目を向けている。
誰一人として気の利いた言葉をかけることができず、気まずく重い沈黙が玄関ホールに落ちた。
「……あの、えっと」
結衣がどうにか言葉を絞り出そうとした時、背後の三人が静かに、しかし足早に踵を返した。結衣一人を玄関に残し、さっさとリビングへと引き上げてしまったのだ。
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回廊型リビングの中央にある大きなソファに腰を下ろした琴音、美月、葵の三人は、顔を見合わせて深いため息をついた。
「ワォだね、さすがにアレはないよね……」
美月が苦笑いを浮かべながら、声を潜めて言う。
「びっくりしたー。てっきり綺麗なお姉さんか文学少女が来ると思ってたのに」
葵も同意するように頷き、困惑したように息を吐く。
「ええ。名前の響きから完全に思い込んでいました。それに予定の30分も早いってどゆこと……」
琴音が眉をひそめた。彼女たちの光あふれる清潔な日常に、あの薄汚れたスーツの男はあまりにも不釣り合いだった。明確に「異物」であり「邪魔者」だという認識が、女性陣の間に瞬時に共有される。
「結衣さんに任せておけば、うまく断ってくれるよね」
三人はリビングの奥から、玄関の様子を伺うように耳を澄ませた。
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女性陣がリビングへ逃げ帰り、玄関ホールには結衣と克実だけが残された。
結衣は引きつった作り笑顔をどうにか顔に貼り付け、恐る恐る口を開いた。
「あ、あの……橘さん。その、本当に申し訳ないんですけど……」
結衣は申し訳なさそうに身を縮めながら、正直な事情を打ち明けた。
「実は私、募集要項に『女性限定』って書き忘れてしまっていて……。受け付けた時もお名前の字面から、てっきり女性の方だと思い込んでいたんです」
結衣の言葉を聞いた瞬間、克実の表情からさらに生気が抜け落ちた。
(……なんと。私のような底辺の異物が、高潔な女性たちの神聖な空間に土足で踏み込んでしまったということか。これほどの重罪、万死に値する……!)
克実の脳内で、極端な自己否定の思考が猛烈な勢いで回転し始める。彼は一切怒る素振りも見せず、むしろ結衣を安心させるように、即座に深く頭を下げた。
「そうでしたか。ミスは誰にでもあります。どうかお気になさらないでください」
完璧なコンシェルジュのトーンで承諾すると、克実はさらに言葉を紡いだ。
「逆に、私のような醜い男が、女性のような紛らわしい名前を持っており、誠に申し訳ございませんでした。皆様の貴重なお時間を奪い、視界を汚してしまったこと、深くお詫び申し上げます」
床に這いつくばらんばかりの異常な自己卑下に、結衣はゾクッと背筋に冷たいものを感じた。
怒られるならまだわかる。しかし、この男は自分自身を人間以下のゴミか何かのように扱い、心底からの善意で謝罪しているのだ。
(な、なんなのこの人……。なんか、すっごく苦手だわ……)
結衣は無意識に後ずさりし、引きつった笑みのまま「それじゃあ……」と促した。
「はい。すぐに失礼いたします。この度は誠に……」
克実が静かに身を翻し、帰ろうとした。
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ちょうどその時だった。
シェアハウスの敷地内に、キャスターの転がる軽快な音が響いてきた。
「あっとぉ、ちょっと早く着きすぎちゃいましたかね〜」
玄関の前に現れたのは、自身の背丈の半分ほどもある大きなスーツケースを持った、可愛らしいファッションの大学生、影森若菜だった。本来十四時に約束していた彼女もまた、予定より少し早く到着してしまったのだ。
出ようとしていた克実と、入ろうとした若菜。二人は狭い玄関の入り口で鉢合わせになった。
「あ、すんません」
若菜が道を譲ろうと右へ体を避ける。しかし、克実もまた「お客様を優先しなければ」というコンシェルジュの悲しい習性で、同時に同じ方向へ体を逃がしてしまった。
「おっと、失礼いたしました。どうぞ、お先に……」
左へ避けると、若菜もまた左へ動く。
まるでコントのような不器用なすれ違いが数回繰り返され、二人は入り口で奇妙なダンスを踊るような形になった。
「わーい! 見学のお客さんだー!」
その時、リビングの奥から元気な声が弾けた。結衣の娘である十歳の凛が、新しい客が来たことに喜んで駆け出してきたのだ。
未だに横にいた、おっさんとは全く違う外見だけで気に入った様子の凛は無邪気な笑顔のまま、右往左往する若菜の足元をちょろちょろと走り回った。
「あ、ちょっと……!」
足元をすり抜ける小さな影に驚き、若菜は大きくバランスを崩した。重いスーツケースに引っ張られるように体が傾く。
「わっ……!」
転倒を避けようと、若菜は咄嗟に横にあった一番近いものへと手を伸ばし、力一杯すがった。
それが、玄関ホールに鎮座する『DIYで作られた特大下駄箱』だった。




