第11話 崩落する棚
女性陣が無知ゆえの善意で組み上げたその棚は、そのサイズ感からは誰もが想像しない極端に薄い板と、抜けやすい短いネジで辛うじて形を保っているだけの代物だった。
一番上の段には、重い観葉植物の鉢と四つの鉄アレイが乗せられており、重心は最悪の形で偏っている。
若菜の体重がかけられた瞬間、短いネジが板から抜ける嫌な音が鳴った。
バキッ、メキメキッ!
次の瞬間、グラグラの塔は一瞬のうちに崩壊を始めた。
天井近くから、重い陶器の鉢植えと、黒光りする鉄の塊が、大量の靴や薄い板と共に、倒れ込んだ若菜の頭上へと容赦なく降り注ごうとしている。
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若菜の視界が、天井近くから崩落してくる巨大な影で完全に埋め尽くされた。たっぷりと水を含んだ陶器の鉢植え、そして黒光りする重い鉄アレイ。それらが大量の靴や薄い板と共に、自由を奪われた彼女の頭上へと容赦なく降り注ぐ。
恐怖に目を見開き、若菜が短い悲鳴を上げた――その瞬間だった。
視界の端から、ヨレヨレのスーツをなびかせた小柄なおっさんが猛然と飛び込んできた。
橘克実だった。元一流ホテルのコンシェルジュとしての洗練された動きでは決してない。ただ「お客様を傷つけてはならない」という、骨の髄まで染みついた悲しい職業病と、「自分のようなゴミが身代わりになればいい」という異常なまでの自己卑下が、彼の肉体をリミッターを超えて動かしていた。
「危ないっ……!」
克実は容赦なく若菜の体を横へと突き飛ばした。
ドサリ、と若菜の体が床へ転がる。それと完全に引き換えにする形で、克実は崩壊する特大下駄箱の全重量と、落下してくる重量物を受け身を取れずにその全身にまともに受け止めた。
鈍く、凄惨な破壊音が玄関ホールに響き渡る。
薄いベニヤ板がへし折れる音。陶器の鉢が粉砕され、湿った土が飛び散る音。そして、美月の置いた重い鉄アレイが、克実の右太ももと左足首、そして咄嗟にかばった左腕へとピンポイントで直撃した。
ゴキッ、バキッ、という、人間の肉体から鳴ってはならない不気味な音が狭い空間に反響する。
同時に、衝撃で克実の胸ポケットから滑り落ちたスマートフォンが床に叩きつけられ、その真上からさらにもう一つの鉄アレイが容赦なく落下した。メキメキと音を立てて、液晶画面が蜘蛛の巣状に、木端微塵に粉砕される。
「きゃああああああっ!?」
突き飛ばされた衝撃で床に尻餅をついた若菜が、目の前の凄惨な光景に喉をかきむしるような悲鳴を上げた。
その絶叫と凄まじい大音量を聞きつけ、リビングのドアが勢いよく弾け飛ぶように開いた。
「な、何事っ!? ――いやだ、何これ!?」
美月が頭を抱えて叫ぶ。後ろからは神崎結衣と藤原琴音、そして五十嵐葵が飛び出してきた。
土と靴が散乱し、完全にへし折れた白い木材の山。その下に、不自然な方向に手足を折り曲げ、顔面を紫がかった土瓶色に変えたおっさんが埋もれている。あまりの地獄絵図に全員が硬直した。
だが、看護師である葵の目だけが、一瞬で「プロの顔」へと切り替わった。
「美月、琴音さん、結衣さん! ボヤボヤしないで、早くこの棚を起こして! 彼が下敷きになってる!」
鋭く、一切の迷いのない葵の指示に、女性陣は弾かれたように動いた。全員で慎重に壊れた靴棚の残骸を持ち上げ、克実の体の上に散乱した鉄アレイや鉢植えの破片、靴の山を必死にどかしていく。
むき出しになった克実の姿は無惨だった。左腕は妙な方向へ曲がり、両足は地面に投げ出されたままピクリとも動かない。激痛のあまり、克実の全身からは滝のような冷や汗が流れ落ち、唇は紫色に震えていた。
「結衣さん、今すぐ百十九番を! 意識はある、呼吸状態もギリギリ維持してる……! 大丈夫ですか! 聞こえてますか!」
葵はすぐに克実の傍らに膝をつき、習慣のように自身の手にアルコールスプレーを異常な回数吹き付けてから、手際よくバイタルを確認し始めた。応急処置を施す葵の指先が、焦りでかすかに震えている。
やがて、遠くからサイレンの音が近づき、救急隊員たちが玄関へと流れ込んできた。
「看護師の私が病院まで同行します。大丈夫ですからね。しっかり意識を保ってくださいね」
動転する結衣や若菜を背に、葵は迷うことなく救急車へと乗り込んだ。
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ピーポー、ピーポーと赤色灯が虚しく車内を照らし、サイレンが鳴り響く。
葵はストレッチャーに横たわる克実の右手を握り、プロとして必死に声をかけ続けた。患者が突然の激痛と事故で、精神的なパニックに陥っているだろうと考えたからだ。
「大丈夫ですからね、橘さん。もうすぐ病院に着きます。私がついていますから、安心してください」
だが、克実の口から漏れたのは、葵のこれまでの看護経験を根底から覆すような、あまりにも異様な言葉だった。
「……す、すみません……お嬢様……。私の、反射神経が……あまりにも鈍く、肉体が……貧弱なばかりに……このような大騒ぎに……」
激痛に歯をガタガタと鳴らしながらも、克実の瞳は、本気の申し訳なささと自己卑下だけで満たされていた。
「な、何を言っているんですか! あなたは女性を庇ったんですよ!? 立派な善行です!」
「いいえ……私のような、社会の不良品が……あの時間に、あの場所にいたこと自体が……間違いだったのです。それなのに……おそらく非番でお疲れの看護師様に……このような、汚いおっさんの付き添いまで……させてしまうなど……万死に値する、大罪……。本当に、申し訳、ございません……っ」
痛みを我慢してまで、あったばかりの葵の手を煩わせることに極限の罪悪感を抱き、涙を流して謝罪し続けるおっさん。
葵は、その異常な言葉の濁流に、背筋が寒くなるような強烈な違和感を覚えた。
(この人、おかしい……。肉体の損傷もひどいけれど、それ以上に……精神が、極端に衰弱している……?)
通常なら痛みに泣き叫ぶべき場面で、この男は自らを徹底的に呪い、加害者であるかのように謝り倒しているのだ。葵のプロとしてのプライドの奥底に、得体の知れない歪んだ澱が、静かに溜まり始めていた。




