第8話 絶望のネットカフェ
横幅一メートル、奥行き二メートルほどだろうか。ベニヤ板とプラスチックの壁で囲まれた狭小空間の床に、橘克実は膝を抱えて座っていた。
かつて、最高級の大理石が敷き詰められ、まばゆいシャンデリアの光が降り注ぐ超一流ホテルのメインロビーで、一分の隙もなく背筋を伸ばしていた男。それが今の彼は、薄暗い通路の奥、蛍光灯の青白い光が不気味に明滅する漫画喫茶のブースに身を潜めている。
自動受付機に身分証をかざし、自らコップに炭酸水を注ぐ。そこには人間同士の温かみのあるおもてなしなど一欠片も存在しない。効率のみを重視し、人間からのサービスを徹底的に排除した無機質な宿泊空間に、克実は強い違和感を覚えざるを得なかった。
だが、彼はすぐに首を横に振り、老眼鏡の奥の瞳を伏せた。
(……いえ、私のような社会のお荷物には、これでも豪華すぎるくらいです。雨風をしのげる立派な天井があり、冷暖房まで完備されている。その上、飲み物まで自由にいただいていいなど、あまりにも分不相応な贅沢……。かつてのお客様がご覧になれば、ゴミ中のゴミにふさわしい箱が用意されたと、胸を撫で下ろされるに違いありません)
克実は本心からそう思い、深く卑下した。
彼はスライド式の薄いドアを静かに閉めると、スマートフォンの画面を起動した。表示されているのは、ネットバンキングの残高画面。実家の借金を完済したことで、数字は無惨にも「480,365円」まで減り果てている。
克実は、長年個人的に契約していた掛け捨ての生命保険の管理画面を開いた。今日が、解約の猶予の最終日だった。
「そうだ、無駄な保険金をカットして生活費へ当てなければいけない」
一切の迷いなく、解約のボタンをタップする。画面に『手続きが完了しました』と味気ない文字が浮かんだ。彼をこの世界に繋ぎ止めていた薄い糸が、また一本、自らの手で静かに断ち切られた瞬間だった。
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翌日、ハローワークの施設内は、どんよりとした重苦しい空気が澱んでいた。
パイプ椅子に腰掛けた克実に対し、窓口の職員は書類に目を落としたまま、冷淡な声で宣告を告げる。
「橘さん、前職は会社都合ではなく、自己都合退職の扱いになっていますからね。給付制限がかかります。失業保険が実際に支給されるのは、二ヶ月先になりますよ」
「二ヶ月、ですか……」
その単語が、克実の胸を冷たく突き刺した。
「そんなに先では、私のなけなしの貯金は底を突いてしまいます……」
危惧を抱いた克実は、焦燥感に駆られながら求人票の束をめくった。しかし、再び「サービス業」や「接客業」の文字を目にした瞬間、指先が凍りついたように動かなくなった。
脳裏に、あの格式高いロビーの光景と、ゼネコン社長の本妻の能面のような冷たい笑みが鮮烈にフラッシュバックする。
『先週お気に召されたあのヴィンテージ・ワインは、本日もご用意いたしましょうか?』
良かれと思って口にした、己の致命的な発言ミス。その自分の声が、呪詛のように耳の奥で鳴り響き、激しい動悸が克実を襲った。
「……っ」
克実はハローワークの椅子の上で、小さく身を縮める。
(ダメだ……。どのような仕事に就こうとも、また私の無能さゆえに、どなたかの輝かしい人生を、組織の価値を、一瞬で破滅させてしまうに違いありません。もう、サービス業へ就く気力など、どこにも……)
ミスを恐れるあまり、前へ一歩を踏み出すことができない。生きるための就職活動すら、彼の深いトラウマによって完全に足すくみさせられていた。
結局、何一つ応募できぬまま、克実は逃げるように漫画喫茶の個室へと帰った。狭いブースの壁際に並ぶ無数の漫画本には一瞥もくれず、ただ悶々とした絶望の時間を過ごす日々が続いた。
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数日後。ネットカフェのパソコンの液晶画面を、克実は老眼鏡をかけ直してじっと見つめていた。
「敷金・礼金なし」「即入居可」
残高が減り続ける中、せめて寝泊まりする場所だけでも確保しなければと、必死に安価な住居を探していた。その時、一つの募集ページが克実の目に留まる。
シェアハウス「シェアスマイル」。
小綺麗で温かみのある建物の写真と共に、そこには入居にあたっての暗黙のルールが記されていた。
『入居のルールとして、お互いの相性を知りたいので、内見の際に少しお話する時間を頂戴しております。当ハウスでは、表面的なデータよりも、お互いのフィーリングを何よりも大切にしています』
克実はその文字を凝視し、小さく息を漏らした。
「フィーリング……。なるほど、互いの相性、ですか」
彼は極めて卑屈な方向へと、その思考の舵を切り始める。
(私のような、存在感すら消し去った『壁や空気』になりきれる人間であれば、住人の皆様の美しく輝かしい共同生活を汚すことなく、底辺の居候としてひっそりと片隅に置いていただけるかもしれない。かつてホテルで培った、人の気配や感情を察する技術……。それを、『誰の邪魔にもならないための機能』として捧げることなら、私のような不良品にもできるはずです)
それが、皆様に対する究極の、そして唯一のコンシェルジュ・サービスだ。克実の本心からの、そしてあまりにも歪んだ善意が、その志望動機を完璧に正当化してしまった。
克実は「橘克実」と本名を入力し、震える右手で申し込みボタンをクリックした。
数時間後、スマートフォンのメールボックスに、ハウス側からの返信が届く。
『それでは、来週の日曜日に内見へお越しください。お時間は、十四時二十分からとなります。お待ちしております』
克実はスマートフォンの画面に向かって、個室の中で深く頭を下げた。
(十四時二十分、ですね。承知いたしました。私のような底辺のおっさんを面接してくださることに心から感謝申し上げます)
そのしっかりとした生真面目な性格、克実は指定された時間の遥か前に現地へ到着するよう、静かに決意を固めるのだった。




