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第5話 大修羅場のロビー

 凍りついた静寂の中、長谷川の顔面から急速に血の気が引き、額からべっとりとした脂汗が吹き出した。

「き、貴様、何を言っている! 誰かと勘違いしているんじゃないのか!」

 怒鳴り声がロビーに反響する。その異常なまでの狼狽ろうばいぶりに、克実の脳に掛かっていたもやが、冷水でも浴びせられたかのように一瞬で晴れた。


(……あっ)

 取り返しのつかない配線ミスに気づいた時には、すべてが遅かった。

「も、申し訳ございません。わたくしの、全くの勘違いでございました……!」

 克実は即座に九十度の深いお辞儀で平謝りした。しかし、長谷川の隣に立つ夫人の目は、すでに氷のように冷え切っていた。


「……先週? あなたは先週末、福岡へ出張だと言っていたわね」

「ち、違うんだ! こいつがボケて、別の客と間違え――」

 夫人は無言で自身のスマートフォンを取り出し、画面を素早くタップした。長谷川のクレジットカードの明細だ。

「……なるほど。出張のはずの日に、このホテルのスイートルームと、高級フレンチの決済記録が残っているわね。……どういうことかしら?」

「それは……!」

 言い逃れのできない証拠を前に、長谷川の顔が絶望に歪む。出張というのは完全に社長の嘘であった。

「私を騙していたのね。それに、このホテルもグルになって、私を笑い者にしていたというわけ?」

 夫人の鋭い声が、ロビーの空気を切り裂いた。彼女は不貞を働いた長谷川だけでなく、それを知らぬ顔で「おもてなし」していた克実をも激しく責め立てた。


 格式高い空間の中心で、激怒する夫人と、しどろもどろに言い訳を重ねる社長。ロビーやレストランのエントランスを巻き込んだ、大修羅場への発展である。その光景は、たまたまラウンジに居合わせていた長谷川の取引先や、他のVIP客たちの目に余すところなく晒された。


「あそこの夫婦、愛人連れ込みをホテルマンに暴露させられたらしいよ」

「このホテル、客の顔もまともに覚えられないのか。おちおち使えやしないな」


 ひそひそとした嘲笑と非難の声が波紋のように広がる。他のお客様の前で不倫が暴露されたこの一件により、一流と呼ばれたホテルの信用は、文字通り音を立てて崩れ去った。


 +++


 騒動がひとまずの収束を見せた後、バックヤードのスタッフルームには、重く冷たい空気が澱んでいた。

 克実が重い扉を開けて中に入ると、これまで彼を「完璧すぎる」と畏怖いふしていた同僚たちの視線が一斉に突き刺さった。しかしそこに、かつての尊敬の念は欠片もない。

「聞いたか? 橘さん、長谷川社長の本妻の前で愛人の話を持ち出したらしいぞ」

「ありえないミスだろ。恨みでもあったのかよ」

「機械みたいに完璧ぶってたけど、ただのボケたおっさんだったってことだ。長谷川さんの会社からの予約、全部キャンセルになったらしいぜ。迷惑極まりないよな」

 あえて聞こえるように交わされる冷ややかな嘲笑。これまで一切の隙を見せずに張り詰めてきた克実が、ただ一度だけ見せた致命的なミス。それは彼らからすれば、不気味なほど完璧だった男を引きずり下ろす格好の材料だった。

 克実はその言葉を背中で受け止めながら、反論も弁明もしなかった。同僚たちを睨み返す気力すらない。


(彼らの言う通りだ。お客様を不快にさせ、ホテルの価値を下げるコンシェルジュなど、人間以下のゴミでしかない)

 克実の中で、自身を十八年間支え続けてきた「おもてなしのプライド」という名の糸が、プツリと音を立てて切れた瞬間だった。


 +++


 その後、支配人室に呼び出された克実を待っていたのは、当然の破滅だった。

「君のせいで長谷川建設という最大の太客を失った!それどころか、当ホテルの信用は地に落ちたんだぞ!」

 顔を真っ赤にして机を叩き、怒鳴りつける支配人に対し、克実はただ深く頭を下げ続けた。

「即刻解雇だ!本来なら君が受け取るはずだった退職金も、失われた利益とホテルへの損害賠償としてすべて相殺させてもらう! 文句はないな!」

「……はい。わたくしの不徳の致すところでございます」

 弁護士を立てれば、退職金の全額没収は不当だと争えたかもしれない。しかし、克実にはもはや、己の権利を主張する意志すら残されていなかった。

 さらに、社員寮となっていた社宅からも「今夜中に出て行け」と冷酷な通告を受ける。

 実家の借金返済で貯金を使い果たし、退職金も奪われ、住む場所すら失った。人生のすべてを捧げてきた場所から、克実は戦犯大罪人として放り出されてしまった。


 +++


 深夜。冷たい風が吹き抜けるオフィス街を、克実は使い古されたスーツケースを一つだけ引きずってさ迷い歩いていた。

 五十万円まで減った預金通帳と、数着の衣服。それが、三十八年間生きてきた男の残骸のすべてだった。

 街灯のネオンが、アスファルトに克実の惨めな影を長く伸ばす。


 普通の人間であれば、自分に莫大な借金を押し付けて逃げた両親を恨むだろう。普通の人間であれば、愛人を連れ込んでおきながら保身に走った社長を呪うかもしれない。

 しかし、克実の心には、他者への怒りや運命への恨みは一切湧いてこなかった。

(私が、間違えたのだ。私の配線ミスで、お客様の尊厳を傷つけ、ホテルの価値を暴落させてしまった)


 彼の内面を占めていたのは、極端なまでの自己否定だった。

(私は不良品だ。おもてなしの機能すら果たせなくなった、ただの肉の塊。生きている価値など、一ミリも存在しない産業廃棄物だ。誰かの視界に入るだけで、その方の人生を汚してしまう)


 足取りは重く、視界はどこまでも暗い。

 自分が「世界の異物」であり「底辺のゴミ」であるという、異常なほどの自己卑下。一切の悪意を持たないその純粋すぎる絶望をかかえたまま、小柄なおっさんは喧噪の街へと消えていった。

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