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第4話 致命的な配線ミス

 たちばな克実かつみの視界の端で、豪奢ごうしゃなシャンデリアの光がわずかに滲んで揺れた。

 無意識のうちに薄く閉じていたまぶたを瞬きで押し上げ、克実は再びメインロビーの喧騒へと意識をチューニングする。背筋は定規を当てたように伸び、シワ一つない制服に身を包むその立ち姿は、誰の目から見ても完璧な「超一流ホテルのコンシェルジュ」であった。

 しかし、その内側では、克実の精神と肉体はすでに限界の淵に立たされていた。


 事の起こりは二週間前。地方で小さな飲食店を営んでいた疎遠な両親が、突然蒸発したのだ。

 店は数年前から火の車だったらしい。思えば何年も前、「絶対に迷惑はかけない」と懇願されて渋々融資の連帯保証人になったことがあったが、克実自身、その事実をすっかり忘れかけていた。

 弁護士を通じて届いたのは、両親の失踪という事実と、眼を疑うような額の借用書のみ。

 逃げ道はなかった。克実は各所を奔走し、文字通り身を粉にして事後処理に当たった。そして昨日、長年かけて少しずつ、大切に積み上げてきた預金をすべて切り崩し、借金の完済手続きを終えたばかりだった。


 定年退職後、世界中の有名ホテルを巡り、ただの客として一流のサービスを受ける。

 克実の人生における唯一にして最大の夢が詰まっていた預金通帳。その最後のページに印字された残高は、無惨にも「503,210円」という数字まで減り果てていた。


(……わたくしの個人的な夢など、所詮はその程度のものだったということです)

 克実は、大理石の床を見つめたまま、心の中で静かに自身の人生を切り捨てた。

 怒りも、両親に対する恨みも湧いてこなかった。ただ、自らの存在意義が削り取られていくような、空虚で無機質な喪失感だけがあった。


 ここ数日、まともな睡眠をとっていない。頭の芯には常に灰色のもやがかかり、思考の歯車が軋むような鈍い耳鳴りが続いている。

(ですが、私にはまだ『機能』が残っている。お客様をおもてなしするための、透明な鏡としての機能が。それさえあれば、私はここに立つことが許される)

 克実は深く息を吸い込み、コンシェルジュ・デスクの前に立ち続けた。痛む頭を無理やり稼働させ、自らを「完璧な接客マシーン」へと強制的に再起動させる。


 その時、ホテルの正面エントランスの自動ドアが開き、重厚な足音がロビーに響いた。


「おい、チェックインの手続きは済んでいるな」

 威圧感のある低い声。現れたのは、大手ゼネコンのトップに君臨する長谷川はせがわ社長だった。

 長谷川は、このホテルが誇る最重要VIPの一人である。気難しい性格で知られるが、克実の提供する完璧なサービスに絶対の信頼を置いており、普段から自社の役員や社員たちにも「一流のサービスを学びたければ、あのホテルの橘の接客を見ろ」と言い聞かせているほどの太客だった。


 克実の網膜が、長谷川の姿を捉える。

 その隣には、上品な和装に身を包んだ、凛とした佇まいの初老の女性が寄り添っていた。

(長谷川様だ。隣におられるのは……)


 その瞬間だった。

 克実の脳内で、致命的な異変が起きた。

 通常であれば、克実の脳内にある膨大な顧客データベースは、視覚情報と瞬時にリンクし、最適解となる「記憶のファイル」を寸分の狂いもなく引きずり出す。

 しかし、過労と極度のストレスで限界を超えていた克実の脳は、ここで決定的な配線ミスを起こした。

 本来ならば、「長谷川社長」と「本妻(年に一度の同伴)」という正しいソケットに繋がるべき記憶のプラグが、暗闇の中で手元が狂ったかのように、誤った別のソケットへと深く、力強く突き刺さってしまったのだ。


 バチリ、と脳内で火花が散るような錯覚。

 引き出されたのは、「先週末」に長谷川が連れてきた「派手な愛人」との強烈な記憶のファイルだった。


(……そうだ。長谷川様は先週も、奥様を連れて当ホテルのレストランをご利用になられた。その際、たいそうワインをお気に召していた)

 もやのかかった思考回路の中で、克実はその誤った情報こそが「絶対の真実」であり、気づかいだと確信してしまった。脳のセーフティ機能は完全に麻痺しており、誰かがストップをかける余地もない。


(長谷川様は、私の顔を見るなり、ご自身の特別扱いを期待されているはずだ。最高のおもてなしで、先週の感謝をお伝えしなければ)

 克実は、コンシェルジュとしての「機能」を完璧に遂行するため、流れるような足取りで長谷川とその妻の元へと歩み寄った。

 その所作には一点の曇りもなく、顔にはホテルマンとして練り上げられた極上の笑みが張り付いている。


「長谷川様、お待ちしておりました」

 克実の深く、温かみのある声が、静かなロビーに心地よく響き渡った。

 長谷川が満足げにあごを引き、隣の妻も穏やかな笑みを浮かべて克実を見る。


 そして、克実は、寸分の狂いもない完璧なトーンと間合いで、決定的な言葉を口走った。


「先週に引き続いてのご利用、誠にありがとうございます。先週お気に召されたあのヴィンテージ・ワインは、本日もご用意いたしましょうか?」


 時間が、凍りついた。

 極上の笑顔を向ける克実。

 その言葉の意味を理解するまでに数秒を要し、やがて顔面から一気に血の気を引かせた長谷川。

 そして――「先週」など夫と共に過ごしていない本妻の、穏やかだった笑みが能面のように冷え固まっていく。


 克実の脳内で間違って繋がれたプラグが、彼自身の人生を焼き尽くす破滅の電流を、ついにロビーの中央へと放った瞬間だった。

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