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第41話 ハッピークリスマス

 十二月二十四日。クリスマスイブの夜。シェアハウス「シェアスマイル」のリビングは、色鮮やかなイルミネーションと豪華な飾り付けで彩られていた。アイランドキッチンからは、神崎結衣が徹夜で仕込んだ七面鳥のローストや、無添加の豪華なケーキの甘い香りが漂っている。

 表面的には、これ以上ないほど華やかで温かいクリスマスパーティーの光景だった。だが、回廊型リビングに集まった女性たちの瞳には、一様に底知れぬ恐怖と暗い絶望の影が落ちていた。


 今日は、橘克実の「完治と自立を祝うパーティー」である。

 約八ヶ月前、彼女たちの無知と怠慢が作り上げた特大下駄箱の下敷きとなり、両足と左腕を粉砕された克実。地獄のようなリハビリの末、ついに彼は自力で一歩を踏み出し、このシェアハウスから巣立っていくまでに回復してしまったのだ。


(明日には……橘さんが、いなくなってしまう)

 結衣は、シャンパングラスを握る指先を白くなるほど強く握りしめていた。

 橘克実が完治して去る。それは、彼女たちが彼から足を奪い、人生を物理的に破壊したという「罪を償う口実」を永遠に失うことを意味している。罪の意識を麻痺させるための『介護』という免罪符が消滅すれば、彼女たちの手元に残るのは、一人の男の人生を狂わせたという逃れようのない加害の事実だけだ。


 五十嵐葵も、藤原琴音も、遠藤美月も、二之部彩夏も、杉浦玲奈も、影森若菜も。全員が同じ恐怖にさいなまれていた。

 彼女たちの生活は、もはや克実の口頭指示や、彼という存在への依存なしでは完全に回らなくなっている。彼を手放すことなど、自我の崩壊と同義だった。しかし、完治した彼を引き留める正当な理由など、どこにも存在しない。


 リビングの中央。かつての介護ベッドは片付けられ、現在は車椅子に深く腰掛けた克実が、極上のコンシェルジュ・スマイルを浮かべていた。

「皆様、本日はわたくしのような粗大ゴミの廃棄前夜のために、これほどまでに豪奢ごうしゃな宴をご用意いただき、誠にありがとうございます。皆様の海よりも深いお慈悲のおかげで、このポンコツの足もどうにか動くようになりました」

 克実の深く温かい声が響く。一切の悪意を持たない、純粋な感謝と自己卑下。

「明日、私がこの神聖な花園から消え去ることで、ようやく皆様の美しい視界が清められます。どうか今夜は、私の門出ではなく、皆様に訪れる清浄な未来に乾杯させてください」


 誰も、乾杯のグラスを合わせることができなかった。

 歓声の代わりに、重く冷たい沈黙だけがリビングに澱む。


 +++


「橘さん……その前に、私たちからプレゼントがあります」

 琴音が、震える声で沈黙を破った。彼女の胸ポケットには、相変わらずインクの出ない赤ペンが刺さっている。

 琴音の合図で、美月が美しい包装紙に包まれた箱をうやうやしく運んできた。

「これ、ウチら全員でお金を出し合って買ったんです。……橘さんの、新しい一歩のために」


 箱が開けられると、中には黒光りする見事な革靴が入っていた。

 社会復帰する克実のために選ばれた、一流ブランドの革靴。しかし、それは歩きやすさや機能性を重視したリハビリ用の靴ではない。美月をはじめとする女性陣が「見た目の美しさ」と「一流のコンシェルジュにふさわしい格式」を優先して選んだため、少しヒールが高く、靴底の硬い、職人が手縫いしたデザインだった。


「おお……」

 克実は目を見開き、そして両手で顔を覆って咽び泣き始めた。

「なんという……なんという美しい靴でしょうか。私のような社会の底辺を這いずる汚物に、このような芸術品を履かせていただけるなんて……。皆様の尊い浄財を、私の足の裏などに使わせてしまい、本当に、本当に申し訳ございません……っ!」

「謝らないでください、橘さん。さあ、履いてみてください」

 葵が膝をつき、克実の足に革靴をそっと履かせた。

 拘縮こうしゅくが残る足には少し窮屈そうだったが、克実は痛みを微塵も見せず、靴紐が結ばれるのを感謝の涙とともに見つめていた。


「皆様。それでは、わたくしの再生の第一歩を、どうか見届けてください」

 克実が、車椅子の肘掛けに手をついて立ち上がろうとする。

「あっ、橘さん、待って!」

 結衣が悲鳴のような声を上げ、咄嗟に克実の右腕を掴んだ。同時に、葵が左側から支えに入り、彩夏や琴音、美月、玲奈、若菜も、まるで神輿を担ぐように、全員で克実の小さな体を四方八方からガッチリと取り囲み、支え上げた。


「まだ一人じゃ危ないです!私たちが支えますから!」

 葵が必死な声で叫ぶ。彼女たちの手は、彼を助けようとする善意の形をとりながら、その実、彼をこの場所から一歩も逃がしたくないというおぞましい執着の鎖と化していた。全員の体温と圧が克実を拘束し、身動き一つとらせない。


「皆様……ありがとうございます。ですが」

 克実は、全員に支えられながら、ふわりと極上の笑みを浮かべた。

「どうか、手をお放しください」

「え……?」

「私のような、皆様の人生に寄生してきた醜いダニが、ようやく皆様の支えなしに自立する瞬間なのです。皆様の美しい手を、これ以上私の汚らしい体で汚すわけにはいきません。どうか、私一人で歩かせてください」


 克実の言葉は、単なる「お願い」ではなかった。

 自らを極限まで卑下し、女性たちの善意をすべて肯定した上で放たれるその言葉は、彼女たちにとって絶対に逆らうことのできない「神託」そのものだった。

 彼がここまで自分たちを気遣っているのに、これ以上強引に拘束すれば、彼に「これ以上の重罪、万死に値します」と狂乱の土下座をさせてしまう。あの自傷まがいの謝罪を引き起こす恐怖が、女性たちの脳裏をよぎる。


「……っ」

 結衣の指先から、力が抜けた。

 葵も、唇を噛み締めながらゆっくりと腕を離す。

 彩夏、琴音、美月、玲奈、若菜。全員が、引き裂かれるような後悔と恐怖を抱えながら、克実の体からゆっくりと手を放した。


 リビングの中央で、橘克実が一人で立った。

 約八ヶ月ぶりに、誰の支えもなく、自らの足だけで立ったのだ。

 女性たちは、息をするのも忘れ、その光景を絶望の目で見つめていた。ああ、これで本当に、私たちの介護という免罪符が終わってしまう。彼は、このまま歩いて、私たちの人生から永遠に消え去ってしまうのだ。


 克実は、プレゼントされた真新しい革靴を履いた右足を、ゆっくりと前へ振り出した。

 そして、体重を乗せ、一歩を踏み出した。


 その瞬間だった。

 少しヒールの高い革靴の底が、リビングのフローリングの僅かな溝に、不自然に引っかかった。

 まだ完全に筋肉が戻りきっていない、拘縮の残る足首。そこへ、ヒールの高さによる予期せぬ重心のブレが襲いかかった。


「おあっ――」

 克実の体が、まるで糸の切れた操り人形のように、大きく斜め前へと傾いた。


「橘さん!!」

 全員が絶叫し、再び手を伸ばした。しかし、一度完全に手を放してしまった彼女たちの反応は、致命的に遅かった。

 克実の体は空を切り、誰の手も届かないまま、フローリングの床へと激しく叩きつけられた。


 メキッ、バキィッ……!!


 クリスマスイブの飾り付けが施された静かなリビングに、人間の太い骨が、無惨に、そして完全にへし折れる嫌な音が響き渡った。


「ああああああっ!!」

 若菜が頭を抱えて悲鳴を上げる。

 結衣は膝から崩れ落ち、葵は血の気を失って立ち尽くした。


 床に倒れ込んだ克実の右足は、真新しい革靴を履いたまま、ありえない方向へと完全にへし曲がっていた。関節の拘縮と筋肉の衰えが残る足に、ヒールの高い靴で不自然な負荷がかかった結果の、最悪の複雑骨折だった。


(私たちが……また、彼の骨を砕いた)

(見た目重視で、あんなヒールの高い靴なんてプレゼントしたから……)

(彼のお願いなんか無視して、ずっと、ずっと私たちが抱きしめて支えていれば……こんなことにはならなかったのに!)


 強烈な後悔と自責の念が、女性たちの精神をズタズタに引き裂いていく。

 しかし、そのパニックと絶望の底の底で、彼女たちの脳裏に、一滴の黒く甘い蜜のような「感情」が、おぞましい勢いで広がっていくのを、誰も止めることができなかった。


(ああ……折れた。また、折れてくれた)

(これで彼は、また歩けなくなった。明日、ここから出ていくことは絶対にできない)

(これで一生、私たちが面倒を見なければならない……いや、見られる。私たちの側に、ずっといてくれるんだ)


 克実が悲惨な怪我を負ったというのに、彼女たちの心の最も深い部分を支配したのは、狂気じみた「安堵感」だった。

 罪悪感という鎖で彼を永遠にこのリビングに縛り付けることができる。その醜悪な喜悦に気づき、自分たちが完全な怪物に成り果てたことを悟った女性たちは、もはや声を上げて泣き叫ぶことしかできなかった。


 喜び泣きとして。

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