第42話 五つ星を超えた狂気のシェアハウス
克実が悲惨な怪我を負ったというのに、彼女たちの心の最も深い部分を支配したのは、狂気じみた喜びだった。罪悪感という鎖で彼を永遠にこのリビングに縛り付けることができるという喜悦に気づき、自分たちが完全な怪物に成り果てたことを悟った女性たちは、もはや声を上げて泣き叫ぶしかなかった。
その阿鼻叫喚の中心で、克実は激痛に冷や汗を流しながらも、完璧な笑顔――コンシェルジュ・スマイルを浮かべて言った。
「……ああ、よかった。僕だけが倒れて皆さんを巻き込まずに済んだ。どなたもお怪我はありませんか?」
自身が再び骨折したかもしれない状況で、真っ先に彼女たちを気遣う極限の自己犠牲。
その底なしの優しさに触れた瞬間、女性たちの心は完全にロックされ、後戻り不可能な依存状態へと陥った。彼という存在が、彼女たちの自我を保つための唯一の神となったのだ。
「橘さん……っ!」
葵が弾かれたように我に返り、プロの看護師として克実の元へ駆け寄った。彼女もまた内心では彼が歩けなくなったことを喜んでいるが、心配するふりをして克実の足の具合を確認し、すぐに救急車を呼ぼうとする。
「酷い骨折です……! 今すぐ、救急車を呼びますから!」
葵が震える手でスマートフォンを取り出そうとしたが、克実は痛みに顔を歪めながらも、強く反対して止めた。
「いけません、五十嵐様。今日はもう遅いので、皆様の神聖なクリスマスを邪魔したくありません。一晩痛みを我慢して、明日タクシーで病院へ向かいます」と、克実はひたすらに微笑みかける。
「そんな……っ、一晩我慢するなんて無理です!」
葵が泣き叫ぶが、克実の決意は固かった。
「私のようなサンタクロースと対極にいるようなおっさんのお世話で、これ以上皆様の聖夜を汚すなど、万死に値します。どうか、私にかまわずパーティーを続けてください」
激痛に耐え、己の肉体が破壊された事実を受け入れながらも、克実は自身の内側で何かが決定的に反転するのを感じていた。
この転倒の直前、克実はついに悟っていた。
最初は本当に死にたかったが、彼女たちが最も求めているのは『贖罪の対象』であり、自分が『永遠の被害者』を演じ続けることこそが、彼女たちへの最高のコンシェルジュ・サービスなのだと。
彼女たちの異常な執着、醜悪な安堵感、そして自分を神のように崇め、依存し尽くすその瞳。それらすべてを満たしてやることこそが、今の自分にできる唯一にして究極の「おもてなし」なのだと。
それは、彼が無自覚な聖人から、寄生型の支配者へと変貌する瞬間であった。
(……かつて私は、ささやかな預金通帳の数字を眺めながら、定年退職後に世界中の有名ホテルを巡り、ただの客として超一流のコンシェルジュ・サービスを受けることを夢見ておりました。しかし、どうでしょう。今、私がこのベッドの上で受けているのは、いかなる五つ星ホテルでも決して提供できない、自らの人生と魂のすべてを捧げた、狂気をはらむほどの極上のサービスではありませんか)
克実は、激痛の裏側で静かな歓喜と充足感に震えていた。
(私が『取り返しのつかない永遠の被害者』としてここに這いつくばり続ける限り、この足を折り続ける限り、彼女たちは自らの罪悪感から解放されるための『献身的な介護』という生きがいを得ることができる。そして私は、ここから一歩も動くことなく、彼女たちから狂気的なまでの愛情と完璧なケアを受け続けることができるのです。これこそ、完璧な需要と供給の一致。私と彼女たちとの、永遠のウィンウィンの関係に他なりません)
自分が無能な底辺のゴミとして彼女たちの支配欲と贖罪の器になること。それこそが、コンシェルジュとして己のすべてを捧げるにふさわしい、彼から彼女らへの『究極のサービス』であった。
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その後の日常は、以前にも増して異様で狂気に満ちたものとなっていた。
シェアハウス「シェアスマイル」の回廊型リビング。再度左足に重厚なギプスをはめて、購入した新しいベッドをリビングの中央に置き、そこに横たわる克実。
もはや克実の言葉は、単なる「申し訳ないお願い」から、女性たちにとって絶対に逆らえない「神託」へと変わっている。
「皆様、私のようなゴミの視界に入っていただき、誠に申し訳ございません」
克実がそう口にするたび、女性たちは彼に這いつくばるようにして許しを乞い、彼に奉仕する機会を求めるのだった。
住人たちは、克実の看病を「自分だけの特権」のように激しく奪い合うようになっていた。
彼の排泄処理や食事の介助は、もはや嫌悪すべき義務ではなく「彼に尽くすことができる最高の名誉」となっている。
かつてはプロとしての誇りを持っていた葵や彩夏でさえも、今や彼の下の世話をすることに恍惚とした喜びを見出していた。
「橘さん、私が綺麗にしますからね……」
葵が涙を流しながらおむつを替える。克実は一切の命令をせず、ただ「私のような排泄物の排泄処理をさせてしまい、万死に値します」と自己卑下を口にするだけで、女性たちが自発的に人生を差し出してくるのだ。
リビングの中央。克実は車椅子に深く腰掛け、一歩も動かずにすべてを手に入れた姿で君臨している。
克実の左腕を、美月が恍惚とした表情で優しくマッサージしている。ハサミを持てなくなった彼女の手は、今や彼を癒やすためだけに存在していた。
「橘さん……痛いところはないですか? 私が、ずっとほぐしてあげますからね」
「遠藤様のゴッドハンドで触れていただき、私のような不良品も天にも昇る心地でございます」
克実の言葉に、美月は幸福に酔いしれたように目を細めた。
窓の外の厳しい寒さとは無縁の温かいリビングでは、他の女性たちが克実のために必死に働いて稼いできた給料で、彼が好む「質素だが高級な」食事の準備を進めている。
オープンすぎるアイランドキッチンで、結衣は徹夜で仕込んだ出汁を使い、克実の神託の通りに火加減を調節していた。若菜はサークルの友人を完全に切り捨て、ただ克実の傍らで「自身の堕落」を語り続ける。玲奈は夜の世界で男たちの欲望を処理し、その身を削って得た大金をすべて彼のために注ぎ込んでいた。琴音はインクの出ない赤ペンを握りしめたまま、彼の接待計画を管理し続けている。
「橘さん、ご飯ができましたよ」
結衣が恭しく御膳を運んでくる。結衣がかぼちゃの煮つけを箸でつまむと、ふーふーと冷ました後、ゆっくりと克実の口に運んだ。
「ああ……神崎様のお料理は、世界中のどの三ツ星レストランよりも素晴らしい。私のような豚の餌にするにはもったいない逸品です」
「そんなこと言わないでください、橘さん。あなたが食べてくれることが、私の生きがいなんですから」
結衣は狂気的な愛情に目を潤ませながら、娘の凛とともに彼を見つめた。
「生きがいなんだから~」
住人たちが克実の車椅子を取り囲み、「克実さん、一生私たちが側にいますからね」と泣きながら、しかし心の底から幸せそうに笑う。
自分たちが彼の人生を破壊したという罪悪感は、彼を神として崇め、完璧な介護という名の生け贄を捧げることで、完全な「自己実現」へと昇華されていた。彼女たちは、自らが狂気の箱庭に囚われていることなど微塵も疑わず、最後まで「自分たちは良いことをしている」と信じ込まされている。
その中心で、克実は女性たちに向けて極上のコンシェルジュ・スマイルを振りまいていた。
しかし、その完璧な笑顔の裏で、彼の瞳だけは酷薄なまでに冷徹な光を宿し、こう呟くのだった。
「ああ、本当に申し訳ない……。僕のようなゴミのために、皆さんの人生を全て使い潰させてしまって。……さあ、次の『お世話』の時間ですよ」
逃げ場のない回廊型リビングの中央。
誰にも邪魔されることのない、閉ざされた狂気のシェアハウスの日常が、永遠に続いていく光景だけがそこにあった。
第1章 完
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