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第40話 完治の足音

 十二月に入り、窓の外を吹き抜ける風が本格的な冬の到来を告げていた。

 シェアハウス「シェアスマイル」の回廊型リビングには、暖房の温もりとは裏腹に、ヒヤリとした薄ら寒い空気が漂っている。


 リビングの片隅に引き寄せられた小さなホワイトボードの前に、藤原琴音が立っていた。彼女の胸ポケットには、インクの出なくなった赤ペンが、まるでお守りのように刺さったままである。


「……以上が、来たるべき橘さんの『完治と自立を祝うパーティー』のスケジュールとなります」

 琴音は中指で眼鏡のブリッジを押し上げ、毅然とした声でリビングにいる住人たちに宣言した。

「橘さんの拘縮した関節も、我らのリハビリ支援の甲斐あってわずかながら可動域が広がっています。このまま順調に回復すれば、ご自身の足で歩き、このシェアハウスを巣立っていく日も近いでしょう。私たちは、その輝かしい門出を完璧に祝福する義務があります」


 ホワイトボードには、分刻み……いや、秒単位で管理されたパーティーの進行表がびっしりと書き込まれていた。

 それは、琴音が自身の「指導者・管理者」としてのアイデンティティを保つための、必死の足掻きだった。彼が治って去っていくという現実を「私が正しく導いた結果」として処理しなければ、自分が彼を物理的に破壊し、依存していただけの異常者であるという事実に押し潰されてしまうからだ。


「えー、なんだか琴音ちゃんの計画、すっごくつまんなーい!」

 その張り詰めた空気を、十歳の凛が無邪気な声でぶち壊した。

 凛は克実のベッドの空いてるスペースで跳ね回るのをやめ、不満げに頬を膨らませて琴音を見上げた。

「もっとケーキとか、クラッカーとか、バーンってやる時間が長くないとヤダ! 琴音おばさんって、いつもお堅いんだもん!」


 ピキリ、と。琴音のこめかみに青筋が浮かんだ。

「お、おばさん……? 凛さん、私はまだ二十代です。それに、これは橘さんの尊い自立を祝う厳粛な儀式であり、あなたのお遊びではありません!」

 普段なら子供のわがままとして受け流せるはずの琴音が、異常なまでにムキになって声を荒らげた。


 しかし、凛はその無邪気さを完全な盾にして、さらに残酷な言葉を放った。

「だってさぁ、琴音おばさん。おっさんが治ってここからいなくなっちゃったら、琴音おばさん、もう『先生ごっこ』できなくなっちゃうじゃん。だから焦ってんでしょ?」

 自分の髪の毛をブチブチと引き抜く勢いで引っ張りながら、凛が首をかしげる。


「なっ……!」

 琴音の顔面から一気に血の気が引いた。

 図星だった。指導者としての全能感を満たしてくれる「反抗しない、完全に従順な生徒(生け贄)」を失う恐怖。それが、十歳の子供の純粋な残酷さによって、白日の下に晒されたのだ。

「あ、あなたという子は……っ! 私が、橘さんの回復を喜んでいないとでも言うんですか!!」

 琴音はインクの出ない赤ペンを握りしめ、ワナワナと震えながら凛に歩み寄ろうとした。


「お待ちくださいませ!!」

 その時、リビングの中央のベッドから、悲鳴のような声が上がった。

 橘克実が、動く右手でベッドの柵を強く握りしめ、半身を起こして懇願していた。


わたくしのような、存在すること自体が世界の損失である呪物のために、藤原様と凛様が争うなど、万死に値する大罪です! 私の汚らわしい名前が、皆様の美しい唇から発せられ、空気を汚してしまうこと自体が耐えられません……っ!」

 克実はボロボロと涙をこぼし、ガタガタと震えながら深く頭を下げた。

「藤原様の仰る通り、私の呪われた肉体も、皆様の海よりも深いお慈悲と極上のケアによって、奇跡的に動く兆しが見えてまいりました。皆様の美しい視界から、私のような魍魎が完全に消え去る日も近いです。ですからどうか、私の門出などという吐き気のするような儀式で、これ以上皆様の尊いお時間を浪費しないでください……っ!」


 一切の悪意を持たない、本心からの善意と自己卑下による仲裁。

 しかし、その「視界から消え去る日も近い」という言葉は、リビングにいた女性陣全員の心臓を、氷の刃で深々と串刺しにした。


 アイランドキッチンで夕食の準備をしていた結衣の包丁が、ピタリと止まった。

 自室のドアの隙間から様子をうかがっていた若菜の呼吸が、ヒュッと引き攣った。

 そして、赤ペンを握りしめていた琴音の膝が、力なく崩れ落ちた。


(……橘さんが、いなくなる?)


 その事実がもたらす意味を、彼女たちは完全に理解していた。

 完治して彼がこの家を出ていくということは、自分たちが彼から足を奪い、人生を破壊したという「罪を償う口実」を永遠に失うということだ。

 罪の意識を麻痺させるための『介護』という免罪符が消滅すれば、彼女たちの手元に残るのは、一人の男を物理的に粉砕したという逃れようのない加害の事実だけ。


 それに加えて、彼女たちの日常生活は、すでに克実の存在なしでは完全に回らなくなっていた。

 結衣の料理は彼の指示がなければ味が決まらず、美月の手は彼を癒やすためだけに動き、玲奈の心は深夜の彼との対話でしか保てず、琴音や若菜の自我も彼という「存在」に依存しきっている。


 彼が自立して出ていく。

 それは、彼女たちの精神の完全なる崩壊を意味していた。


「ちが……っ、違うの、橘さん……」

 結衣が、キッチンカウンターにすがりつきながら、虚ろな声で呟いた。指先が狂ったように小刻みに震えている。

「あなたが……あなたがいなくなったら、私たちは……」


 完治の足音が近づくにつれ、シェアハウスを包み込む狂気は、歓喜ではなく「底知れぬ恐怖と絶望」へとその色を濃くしていく。

 自分たちの罪の象徴であり、同時に精神的支柱でもある男を手放すことなど、もはや誰一人としてできるはずがなかった。

 リビングの空気は、彼を永遠にこの場所に縛り付けたいという、おぞましくもどす黒い執着で限界まで膨れ上がっていた。

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