第39話 絶たれたリアル
翌日の夕方。
回廊型リビングには、トントンと小気味よい包丁の音が響いていた。
オープンすぎるアイランドキッチンに立ち、神崎結衣は無意識に指先を小刻みに動かす癖を見せながら、夕食の仕上げにかかっていた。
「神崎様、そこで火力を弱火に落としてください。戸棚の右から二番目にある、あの無添加の白醤油を三滴だけ。ミリ単位の厚さに切り揃えられた具材の旨味が、これで完璧に引き出されます」
ベッドの上から、克実の静かで、しかし逆らえない完璧な口頭指示が届く。
「はい、橘さん。弱火にして、白醤油を三滴……」
結衣は、引き攣った恍惚の笑みを浮かべながら、ロボットのようにその指示に従った。かつて「完璧な母親」であろうとし、既製品を敵視して手作りに異様な執着を持っていた彼女は、今や克実の指示を受信するだけの「手足」と化していた。自分の意志を放棄し、彼の命令通りに動くことだけが、彼女の「純粋な愛情・家族愛」という名の免罪符を維持する手段だった。
その結衣の様子を見つめながら、リビングの中央のベッドでは、もう一つの「献身」が繰り広げられていた。
「橘さん、お湯の温度、熱くないですか……?」
遠藤美月が、ケリーパッドを敷いた克実の頭皮を、信じられないほど繊細な手つきでマッサージしていた。かつて会話の合間にハサミを動かすように指をシャキシャキと鳴らしていたあの癖は、完全に消え失せている。彼女の指先は、ただ克実を二度と傷つけない、もう絶対に自分のミスで彼に恐怖を与えないという、強迫観念に似た祈りだけで動いていた。
「と、とんでもございません、遠藤様……。私のような、ちぢれた薄毛の底辺おっさんの頭皮に、プロの極上のヘッドスパなど、神罰が下ります。あなたの美しい指を、私の脂で汚してしまって本当に申し訳ありません……っ」
克実は本気で涙を流し、過剰なまでの感謝と自己卑下を美月へと注ぐ。美月はその重圧に押し潰されそうになりながらも、「二度とこの人を傷つけない」と心に誓い、献身的な癒やしを捧げ続けていた。頬に残るかつての小さな切り傷の痕跡を見つめるたび、自責の念が彼女の手のひらをさらに優しく、しかし狂気的に動かさせる。
そこへ、玄関のドアがガチャリと開き、影森若菜がリビングへと入ってきた。
彼女の目は、かつての今どきな女子大生の輝きを完全に失い、ドロリとした裏垢の承認欲求と、現実の狂気が混ざり合った虚ろな光を宿している。その手には、液晶画面に「サークル退会手続き完了」「アカウント削除」の文字が虚しく浮かぶスマートフォンが握りしめられていた。
若菜は自室へ荷物を置きに行くことすら忘れたように、ふらふらとした足取りで克実のベッドサイドへと直進し、その場にドスンと膝をついた。
「おじさん……! 聞いて、聞いてよ! 今日もボク、おじさんのために『最高のお土産』を作ってきたんだ!」
若菜はスマホの画面を克実のぼやけた老眼鏡の前に突きつけ、ハアハアと興奮した荒い息を吐きながら、狂気的な笑顔を浮かべた。
「ボクね、もう大学のサークルの友達、先輩も同期も全員着信拒否してラインもブロックしたの! それだけじゃないよ?『若菜ちゃん最近付き合い悪いからもう縁切るわ』って言ってきた親友の目の前で、ボク、スマホのSIMカードをハサミでパチンって切り裂いてやったんだ! あはは! あいつら、ボクが頭おかしくなったと思って本気で引いてたよ!」
若菜はケラケラと引きつった声を上げて笑う。彼女にとって、リアルな人間関係を自らなぎ倒し、孤立していくことこそが、己の「罪(おじさんを見捨てかけた過去)」を償うための最も純粋な自傷行為であり、至高の快感へと変わっていた。
「あんな浅はかで、おじさんを『キモい』なんて笑う奴らとボーリングに行く時間があるならさ、ボクの青春なんて全部ドブに捨てた方がずっと価値があるって気づいちゃったの。ねえおじさん、ボク、世界で一番優しいよね? ボク、おじさんのためなら、本当に天涯孤独にだってなれるよ……っ?」
若菜の裏垢でつくった『リアルをすべて捨てて、壊れたおじさんに尽くすボク』という究極の悲劇のヒロインの物語が完成しつつあった。彼女は現実の人生を自ら進んで破壊し、その生々しい破滅の報告を、克実への最高のお供え物として嬉々として捧げているのだ。
「おお、若菜様……なんということでしょう……ッ!」
克実はベッドの上で顔を真っ赤にし、大粒の涙を流しながら激しく震え出した。
「私のような、生きているだけで社会の損失である人間マルウェアのような者のために、影森様の輝かしい若さと、尊いご友人関係のすべてを犠牲にされてしまうなんて……! 万死、万死に値する大罪です! 私がここにのうのうと横たわっているせいで、未来ある若者の人生の歯車が狂っていく……! どうか、その切断されたSIMカードの破片で、私のこの役立たずの喉を掻き切ってください……っ!」
咽び泣き、本気で自らの死を請う克実の過剰な自己卑下。しかし、その「自分のせいで若菜の人生が壊れていく」という絶望の告白こそが、若菜の歪みきった承認欲求の核心を、これ以上ないほど強烈に愛撫した。
「いいんだよ、おじさん。ボクがおじさんのために、ぜんぶ、ぜんぶ進んで捨てたんだから。だから、おじさんもボクのこと、絶対に一生忘れないでね……?」
若菜は、克実が泣き叫べば叫ぶほど、自分の「加害性」が「絶対的な献身」へと反転していく歪んだ万能感に満たされ、うっとりと目を細めてスマホの冷たい画面を愛おしそうに撫でるのだった。
アイランドキッチンで完璧な料理を作らされる結衣の「純粋な愛情・家族愛」。
ベッドサイドで震える手で頭皮を癒やす美月の「献身的な奉仕・癒やし」。
そして、自らの人間関係を破壊して得た報告を語る若菜の「個人的な歪んだ気づきの報告」。
廊下のない、すべての個室が直接面した回廊型リビングの中で、三人の女性は、どれが一番橘克実という存在に必要とされているのかを、無言で、しかし狂気的な眼差しで激しく競い合っていた。
リビングの中心に据えられた祭壇を巡り、彼女たちの精神は、克実の「永遠の被害者」という完璧なサービスによって、さらなる地獄の深淵へと転がり落ちていくのだった。




