第38話 深夜の訪問者
深夜二時。シェアハウス「シェアスマイル」の回廊型リビングは、昼間の息詰まるような空気とは異なる、濃密な暗闇に支配されていた。
杉浦玲奈は、寝静まったハウスの気配を窺いながら、自室のドアを静かに開けた。バタン、と乾いた音を立てて部屋を出ると、足音を消し、リビングの中央へと歩み寄る。そこには、彼女のすり減った精神を唯一繋ぎ止める「特権」が待っていた。
ベッドを囲むカーテンの隙間から滑り込み、医療用ベッドの横に膝をつく。
「橘さん、起きてる……?」
「……玲奈様。はい、私のような害虫は、皆様の安眠を妨げぬよう、いびきを立てないよう、なるべく起きているようにしております故」
暗闇の中で、克実の深く温かみのある声が完璧なトーンで返ってきた。玲奈はその声を耳にした瞬間、男たちの醜悪な欲望を処理し続けた一日の終わりに、張り詰めていた心の糸が融解していくのを感じた。
玲奈は迷うことなく毛布の中に手を潜り込ませ、克実の下半身へと触れた。深夜、風俗嬢である彼女がこっそりとベッドサイドへ行き、手扱きで彼を癒やす「消灯後のリビング訪問」は、住人たちの間で半分黙認され、半分目を背けられている状態だった。
玲奈はこれを、絶対に自分を裏切らない、都合よく喋る特大のぬいぐるみを独占できる「自分だけの特権」だと信じ込んでいた。あんたはアタシのゴミ箱であり、アタシを肯定してくれる唯一の人形――そう自分に言い聞かせ、玲奈が克実の肌に触れ続けた、その時だった。
カサリ、とリビングの闇を切り裂く不穏な布擦れの音がした。
「……そこまでにしてください、杉浦さん」
冷徹な声とともに、ベッドのカーテンが乱暴に開け放たれた。そこに立っていたのは、夜勤明けの白衣姿のまま、血走った目を向けた五十嵐葵だった。
昼間、介護ヘルパーの二之部彩夏に「温もりが伝わります」と克実が微笑んだあの瞬間から、葵の焦燥感は限界に達していた。プロとしての責任感が強いゆえに、己の贖罪の特権を奪われる恐怖に駆られた彼女は、深夜のリビングへと現れたのだ。
「はあ? あんた、何? 今アタシの時間なんっすけど」
玲奈が克実のイチモツを握ったまま気怠げな口調の奥に明確な敵意を込めて睨み返す。不安から電子タバコの匂いを嗅ぎたい衝動を抑え、目の前の侵入者を阻もうとする。
しかし、葵は怯むどころか、空中でカルテを書くように狂ったように指を動かしながら、早口で言い放った。
「不衛生です。それに、橘さんの現在のバイタルとリハビリの進捗を鑑みるに、適切な射精管理は自律神経の安定に直結する重要なエビデンスがあります。それは『医療的な射精管理』として、プロである私が担当すべきです」
「医療的、射精管理……?」
玲奈の顔が呆れと嫌悪で引き攣った。大義名分を掲げた、あまりにも狂った名目。だが、葵の目は本気だった。
「私が克実さんの身も心も癒すの! だから、私が一番彼をケアしなきゃいけないの! あなたみたいな素人の、自己満足な奉仕で橘さんのバイタルを乱さないで!」
「何それ、アタシは彼の全てを受け入れてんのよ! アタシは彼を男ではなく、患者でもなく、同じ傀儡として接してんのよ。あんたに出る幕は無いのよ!」
暗闇のベッドサイドで、二人の女が「どちらがより彼を支配する権利があるか」を競い合う、醜い主導権争いの口喧嘩が始まった。
「どうか御止めください……!」
その時、ベッドの上から、引き裂かれるような克実の声を押し殺した悲鳴が響いた。
二人が見ると、克実は拘縮の残る左腕を痛々しく震わせ、ぼやけた老眼鏡の奥からボロボロと大粒の涙を流していた。
「やめてください……! 私のような、存在すること自体が世界の損失であるゴミのために、皆様のような美しく高潔な方々が諍いをおこすなんて……! これ以上の重罪、万死に値します。私の呪われた肉体が、皆様の尊い日常を切り裂いてしまっている……!」
克実は激しく咽び泣きながら、ベッドの上で崩れるように頭を下げた。
「わかりました……私のような不良品が、お二人の海よりも深いお慈悲を無駄にしないための最善の稼働方法を提案いたします。……夜中は、玲奈様にお願いいたします。端的に申せば、早朝は、葵様にお願いいたします。どうか、私のような汚物の肉茎のために、これ以上美しいお心を痛めないでください……っ!」
泣きながら懇願する克実の姿に、二人の女はハッと息を呑んだ。
一切の悪意を持たない、本心からの善意と自己卑下。しかし、その言葉は二人の狂信を決定的に加速させた。自分たちの歪んだ愛情を完璧にコントロールされ、彼を「不可侵の神」として君臨させる寄生型の支配構造が、深夜の暗闇の中でより強固に構築されていく。
「……夜中はアタシ、早朝はあんた。それで文句ないっすね」
「ええ。スケジュールを組みました。約束は守ります」
二人は歪んだ合意を交わし、克実という神の神託に従うように、それぞれの闇へと収まっていった。




