第37話 罪の祭壇
冬の足音が近づく十一月下旬。シェアハウス「シェアスマイル」の回廊型リビングには、かつての明るい団らんの気配は完全に消え失せ、代わりに異様なほどの静謐さが漂っていた。
リビングの中央に鎮座する医療用ベッド。そのすぐそばには、あの日、橘克実の足と腕を粉砕した「欠陥下駄箱」の残骸を使って作り直された「頑丈な棚」が置かれている。
以前のものとは違い、業者を呼んで太いボルトで壁にしっかりと固定されたその棚は、女性陣にとって取り返しのつかない「罪の象徴」であった。しかし現在、その棚には克実の薬やティッシュ、本といった「世話アイテム」が一寸の狂いもなく綺麗に整頓され、彼を生かすための「祭壇」へと変貌を遂げていた。
「ただいま戻りました、橘さん」
玄関のドアが開き、大学から帰宅した影森若菜がリビングへと入ってくる。彼女の足取りは、ベッドの上に横たわる克実へと吸い寄せられるように向かった。
「おかえりなさいませ、影森様。外は冷え込んだでしょう。私のような異物が、せっかくの暖かいお部屋の空気を汚してしまって申し訳ございません」
克実はベッドの上から、動かせる右腕を胸に当てて深く頭を下げた。その極端な自己卑下は、もはやこの家の日常だった。
若菜は何も言わず、自分の鞄から買ってきたばかりの高級な無添加ゼリーを取り出すと、それをうやうやしく「祭壇」へと並べた。
「影森様、これは……。私のようなへんちくりんにはもったいない極上の品です。どうかご自身で召し上がってください」
「いいの。ボクが、橘さんに食べてほしいから買ってきただけだから」
若菜は、神に供物を捧げる信者のような虚ろな笑みを浮かべて言った。
続いて帰宅した遠藤美月もまた、黙って祭壇に温かいアイマスクとマッサージクリームを献上した。美容師としてのハサミを握れなくなった彼女にとって、金を使って彼のためのアイテムを捧げることだけが、唯一の自我の保ち方だった。
現在のシェアハウスには、「克実さんへの謝罪禁止」という暗黙のルールが完全に定着していた。
かつて、住人の誰かが「ごめんなさい」と謝罪の言葉を口にした際、克実はそれ以上に激しく土下座をして謝り返し、自らの拘縮した足を床に打ち付けるという自傷まがいの行動に出たからだ。
「私のような存在が、皆様に謝罪という屈辱を味わわせるなど万死に値します。どうか私を罰してください!」と泣き叫ぶ克実を前に、彼女たちは謝ることすら許されないのだと悟った。
だからこそ、彼女たちは謝罪の言葉を飲み込み、代わりに「何かを捧げる(尽くす)」ことでしか、自分たちの罪悪感を埋め合わせることができなくなっていた。供物が増えれば増えるほど、リビングの祭壇は異様な光景を誇るようになっていく。
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克実の骨折から数ヶ月が経過し、地獄のようなリハビリの末、彼の拘縮した関節はわずかに和らぎ始めていた。
しかし、その肉体的な回復は、住人たちに安堵をもたらすどころか、新たな狂気を生み出していた。彼が回復に向かえば、いずれ自分たちの手から離れていってしまう。罪を償うための「免罪符」が失われる恐怖から、女性陣の間で彼を世話する「特権」の奪い合いが、静かに、そして激しく激化し始めていたのだ。
休日の午後。ベッドの傍らで、五十嵐葵と二之部彩夏が、無言の火花を散らしていた。
看護師である葵と、介護ヘルパーである彩夏。共にケアのプロフェッショナルである二人は、「どちらがより橘克実の生活に貢献しているか」という狂ったマウントを取り合っている。
「橘さん、今日は足の関節を重点的にほぐしますね」
彩夏は、美月が献上したマッサージクリームを手に取り、克実の痩せ細った足に優しく触れた。スピリチュアルな浄化の儀式を信じ込んでいる彩夏の手つきは、まるで壊れ物を扱うかのように丁寧で、慈愛に満ちていた。
「……っ」
わずかな痛みに克実の体がビクッと跳ねるが、彩夏はゆっくりと、筋肉の緊張を解きほぐすようにマッサージを続ける。
「二之部様……」
克実は、シーツを握りしめながら、ポツリと口を開いた。
「二之部様の手つきは本当に丁寧で、私のような冷めた厨芥にも、あなたの温もりが痛いほど伝わってまいります」
それは、一切の打算のない、克実の無意識の感想だった。
「私のような死蔵品のために、その尊いお力を割いていただき……まるで、天女の慈悲に触れているかのようです。本当に、ありがとうございます」
その言葉が、隣でバイタルチェックの準備をしていた葵の胸を、鋭利な刃物で深々と抉った。
(……温もり?)
葵は、自身の手に握られた医療用のアルコールスプレーを見つめた。
自分は看護師として、誰よりも正しく、完璧に彼の「医療的ケア」を行ってきた自負があった。感染症を防ぐために徹底的に消毒し、関節の拘縮を防ぐために彼が血を流してでもリハビリを強行してきた。
しかし、それはあくまで「事務的な医療」であり、彼にとっての安らぎや「温もり」にはなっていなかったのだ。
(私はプロなのに……私のケアは、彼にとってただの苦痛と事務作業でしかなかったの?)
強烈な敗北感が、葵の精神を真っ二つにへし折った。
彩夏が克実の足に触れるたび、彼が浮かべる穏やかで卑屈な笑顔。それを見るたびに、葵は自分だけが蚊帳の外に置かれ、贖罪の特権を奪われたような錯覚に陥っていく。
「五十嵐様、いつもバイタルチェックをありがとうございます。私のようなノロマな不良品の数値を測るなど、テクノロジーの無駄遣いですが……」
克実が葵に向けて労いの言葉をかけるが、もはや葵の耳には届いていなかった。彼女の白衣の下で、ギリッと奥歯を噛み締める音が鳴った。プロとしてのプライドが崩壊し、狂信的な独占欲へと姿を変えた瞬間だった。




