第36話 インク切れの赤ペン
十一月に入り、冷え込む朝が増えてきたシェアハウス「シェアスマイル」の回廊型リビング。
中央に置かれた介護ベッドの横で、橘克実は一本の杖に体重を預け、震える両足で必死に立ち上がろうとしていた。
骨折から数ヶ月。地獄のようなリハビリの末、拘縮していた関節がわずかに曲がるようになり、ついに自力で数歩だけ歩ける兆しが見え始めていたのだ。
「よっ……と」
克実の足が、ベッドから離れて一歩前へ踏み出そうとした瞬間。
「あっ、橘さん! 危ないっ!」
アイランドキッチンにいた神崎結衣が血相を変えて飛んできた。同時に、夜勤明けでダイニングチェアに座っていた二之部彩夏も駆け寄る。
「まだ一人で歩くなんて無理しないでください! 転んだらどうするんですか!」
二人は克実の両脇をガッチリと抱え込み、踏み出そうとした足の動きを完全に封じ込めた。そのまま「危ないから」という名目で、半ば強引に彼をベッドの上へと押し戻してしまう。
「も、申し訳ございません。私の貧弱な足取りが、皆様に不安を与えてしまい……っ」
ベッドに倒れ込んだ克実が、顔を真っ赤にして平謝りする。
「いいのよ、橘さんはゆっくり休んでて。必要なものは私たちが全部持ってくるから」
結衣が優しく微笑む。
しかし、その光景を少し離れたダイニングテーブルから見ていた藤原琴音の目には、はっきりと見えていた。結衣たちが行っているのは「支援」ではない。彼が自力で歩くことを無意識に妨害し、再びベッドに縛り付けようとする「自立の阻止」なのだ。
(……このまま橘さんが完治したら、どうなる?)
琴音の胸の奥底に、黒い不安が渦巻いた。
彼が歩けるようになれば、いずれこのシェアハウスを出ていく。そうなれば、自分たちが「彼を壊した加害者である」という罪悪感を相殺するための、免罪符(介護)が消滅してしまう。
依存先を失う恐怖。
高校教師である琴音は、その得体の知れない恐怖を押し殺し、己のアイデンティティである「指導者」としての役割にすがりつこうとした。
(橘さんが社会復帰しても困らないよう、私が正しい生き方を再教育し、指導しなければならない。それが、彼を壊してしまった私の責任であり、義務なのだから)
+++
その週末。
琴音はリビングのベッドサイドに小さなホワイトボードを用意し、胸ポケットから愛用の赤ペンを抜いた。
「橘さん。本日は、あなたの今後の『社会復帰』に向けた進路指導を行います」
琴音の毅然とした声に、ベッドの上の克実は正座に近い姿勢で居住まいを正し、真剣な眼差しを向けた。
「橘さんの現在の状況を客観的に評価します。職を失い、身寄りもなく、全財産は約五十万円。これは社会的に見て、極めて厳しい状況……つまり『社会的弱者』に分類されます」
琴音はホワイトボードに『自立へのロードマップ』と書き出し、赤ペンでカツカツと音を立てながら熱弁を振るい始めた。
「ですが、悲観することはありません。国や自治体には、低所得者層を救済するための公的支援が数多く存在します。生活保護の申請手順、自立支援医療の活用、さらには障害年金の受給資格について、私が資料をまとめておきました」
琴音は、徹夜で調べ上げた分厚い資料を克実に提示した。
「さらに、もしもの時に備えて、都内の公園で行われている『炊き出し』のスケジュールと場所もリストアップしてあります。これで、最悪の事態でも餓死することは防げます。生活のリズムを整え、これらの支援を正しく利用すれば、必ず社会のレールに戻ることができます」
琴音の口調は熱を帯びていた。彼女にとって、克実を正しく導くこの行為は、過去に不登校の生徒から「先生の自己満足だ」と拒絶されたトラウマを克服するための儀式でもあった。自分は間違っていない。こうして迷える人間を救済し、指導する全能感。それこそが、教師としての彼女の存在意義だった。
克実は、琴音の言葉を一言も聞き漏らさぬよう、ノートにペンを走らせ、完璧な姿勢で傾聴し続けていた。
+++
数時間に及ぶ熱心な指導を終え、琴音はホワイトボードを満足げに見つめた。
「……以上が、あなたが進むべき道です」
琴音は赤ペンを指先で回し、誇らしげに語りかけた。
「これであなたも、新しい人生の第一歩を踏み出せますよ、橘さん」
克実は、ノートを閉じると、ベッドの上で深く、深く頭を下げた。
「藤原様。本日は私のような者のために、これほどまでに素晴らしいご指導を賜り、誠にありがとうございます」
その声は微かに震え、感極まっているようだった。
「あなたの教えは、しっかりと胸に刻み込みました」
「ええ。理解していただけたなら何よりです」
琴音が微笑んだ、次の瞬間だった。
「藤原様が仰る通り、私は底辺のゴミです。そんな私に、炊き出しの場所まで教えていただき……社会の中で、ゴミはゴミらしく、ゴミなりの這いつくばり方があるのだと、はっきりとお示しいただきました」
克実はポロポロと純粋な感謝の涙を流しながら、完璧な笑顔で言い放った。
「身の程をわきまえず、人間と同じように生きようなどと考えてはいけないのですね。ご指導の通り、これからは社会のチリとして、他人様の足裏の汚れを舐めるようにして、ルールを守って這いつくばって生きていきます!」
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「ちが……っ、そういう意味じゃ……」
琴音の顔から、一瞬にして血の気が引いた。
克実の極端な自己卑下フィルターを通したことで、琴音の熱心な進路指導は「お前は社会的弱者のゴミなのだから、身の程を知って底辺の炊き出しに並んで地を這え」という、極めて残酷で見下したメッセージに変換されてしまっていたのだ。
(私が……彼を傷つけた?)
琴音の脳内で、致命的な錯覚が猛烈な勢いで膨張し始めた。
私は彼を助けようとしたんじゃない。彼を「低所得者層」や「社会的弱者」だと一方的に決めつけ、上から目線で哀れみ、炊き出しのスケジュールなどを押し付けて……彼の人間としての尊厳を、無意識のうちにズタズタに踏みにじっていたのだ。
『先生のやってることなんて、ただの自己満足じゃん!』
過去の不登校の生徒が吐き捨てた拒絶の言葉が、耳の奥で悍ましいボリュームとなってフラッシュバックした。
そうだ。私は彼の人生を心配していたわけじゃない。ただ、反抗できない寝たきりのおじさんを「社会的弱者」という枠に押し込めて、指導者ぶって気持ちよくなっていただけだ。
自分の醜悪な傲慢さと、完全なる「自己満足」の正体を突きつけられ、琴音の息が荒くなる。
「違う……私は、橘さんをゴミだなんて……っ。こんなことを、教えたかったわけじゃ……っ!」
琴音はパニックに陥り、震える手でホワイトボードに向かい合った。
そこには、自身が書き連ねた『自立へのロードマップ』や『公的支援の活用』といった文字が並んでいる。一般的には正しい情報だが、今の精神が崩壊しかけている琴音にとっては、それらはすべて「彼をゴミ扱いし、傷つけた間違った証拠」にしか見えなかった。
「消さなきゃ……こんな間違ったこと、早く……!」
琴音は右手に握った赤ペンで、ホワイトボードの文字をぐしゃぐしゃに塗りつぶそうとした。間違った言葉を、赤い線で取り消して、正しく書き直さなければ。教師として。
ガリッ。
しかし、ホワイトボードにペン先を擦りつけた瞬間、嫌な音が鳴った。
キュッ、カスッ……。
何度線を引こうとしても、インクが出ない。
かすれた赤い跡が、虚しく盤面を汚すだけだった。
「あ……え……?」
琴音は、信じられないものを見るように自分の手元の赤ペンを見つめた。
インク切れだった。
生徒の答案を採点し、迷える者を正しく導くための、教師としての生命線であり、彼女の支配力の象徴。それが、彼を傷つけた証拠を消すこともできず、完全に尽き果てたのだ。
「ああ……あああ……っ!」
琴音の喉から、空気が引き攣るような悲鳴が漏れた。
彼女は赤ペンを取り落とし、膝から崩れ落ちた。
「申し訳ございません、藤原様! 私のようなゴミが、藤原様の貴重なインクを使い果たさせてしまったのですね……っ!」
克実がベッドの上から、真剣な顔で謝罪し続ける。
その異常な感謝と謝罪を浴びながら、琴音は両手で顔を覆い、カタカタと震え続けた。
誰も正しく導けない。自分の中にあるのは、醜い自己満足と傲慢さだけ。
教師としてのアイデンティティが音を立てて粉々に砕け散り、琴音の魂は、シェアハウスのリビングという名の底なし沼へ、完全に沈み込んでいった。




