第35話 常識の排除
完璧に淹れられたルイボスティーのカップを前にしても、園美は一口も飲むことができなかった。
シェアハウスを包み込む異常な空気。結衣のロボットのような振る舞い。そして何より、リビングの中央に鎮座する見知らぬ小柄なおっさんの存在。
「ねえ、みんな……」
園美は、たまらずティーカップをソーサーに置いた。カチャリと鳴った小さな音が、静まり返ったリビングに不気味に響く。
「これ、ほんとにどういう状況なの? どうして女子限定シェアハウスの、リビングのど真ん中に男の人を寝かせているの? 何か脅されてるわけ?」
園美の問いかけに、住人たちは一様に顔を強張らせた。
琴音が中指で眼鏡を押し上げながら、早口で取り繕うように言う。
「橘さんは、私たちの大切な……同居人です。お怪我をされているので、皆で協力してお世話をしているだけで……」
「お世話って……」
園美は信じられないというように目を丸くした。
「若い女たちが、血の繋がらないおっさんの下の世話までしてるってこと!? そんなの、どう考えても狂ってるわよ!」
園美の口から飛び出した「狂っている」という言葉が、リビングの空気をピキリと凍りつかせた。
しかし、彼女にとってそれは、社会の「普通」を生きる人間としての、100%正しい正論だった。
「あなたたち、一体どうしちゃったの? ここは女の子だけのシェアハウスでしょ。いくら事情があるにしても、こんな環境、絶対に普通じゃないわ。彼の人生のためにも、それにあなたたち自身の未来のためにも、早く専門のリハビリテーション病院か施設に入れるべきよ!」
彼女の言葉は、常識という名の鋭利なナイフだった。
住人たちが必死に目を逸らし、見ないふりをしてきた「異常性」。そして何より、「自分たちが彼の人生を物理的に破壊したから、罪滅ぼしのために彼に依存している」という醜悪な真実の核心を、寸分の狂いもなく射抜いていた。
図星を突かれた結衣や琴音の顔から血の気が引き、呼吸が荒くなる。
だが、誰かが反論するよりも早く、異常な行動に出たのはベッドの上の克実だった。
「その通りです!!」
ガシャァン!
克実は、拘縮した足を無理やり動かし、ベッドから床へと転げ落ちた。鈍い音を立てて冷たいフローリングに叩きつけられながらも、彼は動く右腕と体幹を使って這いずり、園美の足元へとすがりついた。
「小河様の仰る通りでございます!」
克実は床に額を擦りつけ、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら絶叫した。
「私も、小河様のご意見に完全に同意いたします! 私のような異界生物が、皆様のような美しく輝かしい普通の女性たちの未来を食いつぶしているのです! こんな狂った環境は、一秒でも早く終わらせるべきでございます!」
克実は自身の頭を床に何度も打ち付けながら、狂乱の態で懇願する。
「ですからどうか! どうか皆様、小河様の正しいお言葉に従って、私のようなゴミをこの神聖な場所から今すぐ放り出してください! ゴミ置き場にでも、ドブ川にでも、どこへでもいいので捨ててください!」
それは、彼なりの純粋な同調だった。園美の正論に乗じ、自分という「重荷」を彼女たちから取り除こうとする、異常な自己犠牲の爆発。
しかし、その本心からの土下座と歎願は、住人たちの「罪悪感」という名の導火線に、最悪の形で火をつける劇薬となった。
「やめて!! 橘さん、床に頭を擦りつけないで!」
五十嵐葵が、悲鳴のような声を上げて克実に駆け寄った。
その瞬間、葵のプロとしての理性が完全に崩壊した。彼女の白衣のポケットから、医療用の高濃度アルコールスプレーが抜き打たれる。
「シュッ! シュッ! 橘さんが汚れる! 橘さんの傷口から菌が入って、また病んじゃう!」
葵は血走った目で虚空を睨みながら、床に這いつくばる克実の周囲に、異常なスピードと回数でアルコールを吹きかけ始めた。
さらに、あろうことか、その矛先は園美の足元へも向けられた。
「シュッ! シュッ! 汚い! 外のバイ菌を持ち込まないで! 私たちの橘さんを汚さないで!」
「きゃっ……! あ、葵ちゃん、何して……っ」
アルコールのツンとした匂いが充満し、園美はむせ返りながら後ずさった。
「何も知らないくせに、橘さんを悪く言わないで!」
次に牙を剝いたのは、結衣だった。
彼女はキッチンから飛び出し、園美の前に立ちはだかって激しく睨みつけた。
「橘さんは、私たちの家族なのよ! 私たちがいなきゃ生きていけないの! それを、施設に入れろだなんて……私たちから、橘さんを奪おうとしないで!」
「評価対象外です、小河さん」
琴音も、赤ペンを握りしめた手をワナワナと震わせながら、冷酷な声で園美を断罪した。
「あなたの言う『普通』など、ここでは何の意味も持ちません。私たちは、橘さんと共に生きるという崇高な義務を負っているのです。それを部外者が土足で踏みにじるなど、許されることではありません」
美月も、彩夏も、若菜も。
かつて園美と肩を並べて笑い合っていた親友たちは皆、敵意と憎悪に満ちた目で彼女を睨みつけている。
彼女たちはもう、自分が克実を壊したという罪悪感に耐えきれず、彼を「崇拝すべき神」として介護することでしか自我を保てない狂信者へと成り果てていた。
だからこそ、自分たちの「聖域」を壊し、目を背けてきた罪の現実を突きつけてくる園美は、排除すべき明確な「敵」だった。
「あなたたち……本当に、どうしちゃったのよ……」
園美は恐怖で顔を引き攣らせ、自身のお腹を庇うように抱きしめた。
その時、大人たちの足元をすり抜けて、十歳の凛が園美の前に進み出た。
「園美ちゃん」
凛は、純粋で無邪気な、曇りのない笑顔で園美を見上げた。
「園美ちゃんの赤ちゃんも、産まれたらこの腐ったおっさんで遊ばせてあげるね! ボタンを押すみたいに言うだけで、何でも言うことを聞いてくれる、すっごく便利なおもちゃなんだよ!」
ヒュッ、と。園美の喉から空気が引き攣る音が鳴った。
子供の純粋な瞳。そこには、この異常な空間のルールが「絶対の善」として完全に洗脳され、刷り込まれている事実が浮かび上がっていた。
(ここは……もう、手遅れなんだわ)
園美は、リビングの壁へと視線を這わせた。
そこには、数ヶ月前の小河園美のお別れパーティーで撮られた、輝くような笑顔の集合写真が飾られている。
そして眼の前には、見知らぬおっさんを神と仰いだり、おもちゃと罵ったり、血走った目で自分を睨む、かつての親友たちの姿がある。
(完全なる別人。私の知っているみんなは、もうどこにもいない)
圧倒的な絶望感と、得体の知れないカルトに飲み込まれるような恐怖。
「……ごめんなさい、私、帰るわ」
園美は逃げるように踵を返し、手作りの大きすぎる下駄箱が撤去され、無惨に広くなった玄関ホールを駆け抜けた。
バタン、と重厚なドアが閉まる音が、彼女とこのシェアハウスとの永遠の決別を告げていた。
外に出た園美は、秋の冷たい風に吹かれながら、何度も何度も深呼吸を繰り返した。
彼女が去った後、あの「シェアスマイル」という名の密室で、彼女たちがどうなっていくのか。それを想像することすら恐ろしく、園美はお腹の子を守るように早足でその場から立ち去った。
かくして、唯一の「常識」という名の光は排除され、シェアハウスの女性たちは社会から完全に孤立した。
自分たちで作った地獄の底で、狂信的なゆがんだ介護の連鎖だけが、静かに、そして永遠に続いていくのだった。




