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第34話 元親友の来訪

 秋の冷たい風が、総合病院の無機質な窓を叩いていた。

 ナースステーションで電子カルテに向かっていた五十嵐葵の耳に、担当病室からのナースコールがけたたましく響いた。

「……はい、五十嵐です。どうされました?」

『あの……手術したところが、痛くて眠れなくて……。痛み止め、もらえませんか?』

 インターホン越しに聞こえてくる、初老の男性患者の力ない声。

 しかし、葵の顔には、かつて持っていたはずの患者への思いやりや共感の色は一切浮かばなかった。ただ、氷のように冷たい無関心だけが張り付いている。


「先ほど、処方された分は飲まれましたよね。次の服用時間まではまだ間がありますから、我慢してください」

『でも、本当に痛くて……』

「お腹を切ったのですから、痛いのは当たり前です。深呼吸して、気を紛らわせて休んでください」

 葵は事務的にそう言い放ち、一方的に通信を切った。


(……甘えないでよ)

 葵は自身の指先をじっと見つめ、心の奥底でその患者を冷笑した。

(橘さんは、あのグラグラの棚の下敷きになって両足と左腕を砕かれた時も、私が拘縮こうしゅくした関節を無理やり曲げて肉が裂けるような激痛を与えた時も……決して悲鳴なんて上げなかった。私たちを気遣って、血を流して笑っていたのに)

 葵の頭の中は、今や「橘克実」という存在で完全に埋め尽くされていた。

 彼がどれほどの苦痛に耐えているかを知っているからこそ、他の患者の「痛い」「苦しい」という訴えが、すべて甘えや大袈裟な芝居にしか見えなくなっていたのだ。

 他人のケアに全く身が入らない。葵のアイデンティティは、すでに「患者を救う看護師」から、「自分たちが壊した橘克実という尊い犠牲者を守るための専属介護者」へと、完全かつ致命的にすり替わってしまっていた。


 +++


 週末の午後。シェアハウス「シェアスマイル」のインターホンが、明るい電子音を鳴らした。

「みんなー、久しぶり!」

 重厚な扉を開けて顔を出したのは、数ヶ月前に退去した元住人の小河園美だった。

 清楚なマタニティウェアに身を包んだ彼女のふっくらとしたお腹と、艶やかな肌。それは彼女が「定職に就き、結婚し、健康な子供を産んで家庭を作る」という、彼女の強迫観念とも言える「完璧で普通の幸せ」の絶頂にいることを証明していた。


 かつての親友たちに妊娠の報告をするため、幸せオーラ全開で足を踏み入れた園美だったが――玄関ホールに立った瞬間、彼女は鼻を突く異臭に思わず顔をしかめた。

(……えっ?)

 以前のシェアスマイルは、神崎結衣が炊く無添加のアロマや、手作りお菓子の甘い香りが漂う、清潔で明るい空間だった。

 しかし今は違う。アルコール消毒液のツンとした匂いと、微かに漂う排泄物の匂い、そして湿布の匂いが混ざり合った、まるで重篤な患者を抱える重症病棟のような澱んだ空気が充満していたのだ。


 さらに、バリアフリーの玄関から丸見えになっている回廊型リビングの中央を見て、園美は息を呑んだ。

 かつて皆で談笑していたふかふかのソファは部屋の隅に追いやられ、代わりに無機質な巨大な医療用介護ベッドがドスンと鎮座していた。

 さらにさらにその上には、見知らぬ小柄なおっさんが座っている。秋になり、片手と両足の拘縮はどうにか少しだけ改善したのか、ベッドの柵にしがみつくようにして上体を起こしていた。しかし、その老眼鏡の奥の瞳は、生気が完全に抜け落ちた異様なオーラを放っていた。


「そ、園美ちゃん!」

 キッチンから結衣が顔を出した。その目の下には濃いクマがあり、かつての健康的な輝きは見る影もない。しかし、顔には異様にハイテンションな笑顔が張り付いていた。

「いらっしゃい! 連絡くれて嬉しかったわ!」

 奥の部屋から、琴音や美月、彩夏たちも次々とリビングに集まってくる。

「園美さん、ご結婚おめでとうございます。それに、お腹……」

「うん! 実は五ヶ月なの。みんなに一番に報告したくて」

 園美は愛想笑いを浮かべながらも、視線はリビングの中央に釘付けになっていた。

「あ、ありがとう。……ねえ、結衣ちゃん。あそこのベッドにいる、あのおじさんは……?」


 園美が尋ねると、結衣や琴音たちは一瞬、ビクッと肩を震わせ、さっと目を泳がせた。

「あ、えっと……ちょっと色々あって、一緒に生活しているの。橘さんっていうの」

 結衣がしどろもどろに誤魔化す。自分たちが無知で作った棚で彼の骨を粉砕したなどと、園美に言えるはずがなかった。


 その時、ベッドの上の克実が、動く右手を使ってベッドの柵を掴み、園美に向かって深く頭を下げた。

「初めまして、小河様。橘と申します。わたくしのような素っ頓狂な異物が、小河様のような新しく尊い命を宿された神聖なお方の視界に入ってしまい、誠に申し訳ございません。あまりの不快さに胎教に悪影響が出ないか、そればかりが心配で万死に値する思いでございます……っ」

 一切の悪意のない、極限までへりくだった純粋な自己卑下。

 園美は、そのあまりにも異常で卑屈な挨拶に、ゾクッと背筋に冷たいものを感じた。


「そ、園美ちゃん、座って! 今、ハーブティーとケーキを用意するから!」

 結衣が慌てて園美をダイニングテーブルの席へ促し、アイランドキッチンへと向かった。

 園美は座りながら、キッチンの結衣の様子を観察していた。すると、さらに異様な光景が繰り広げられ始めた。


「神崎様。小河様はご懐妊中とのことですから、カフェインは避けるべきです。戸棚の左奥にある、ノンカフェインのルイボスティーの茶葉を」

 克実がベッドの上から、静かな、しかしよく通る声で指示を出す。

「はい、橘さん。ルイボスティーですね」

「お湯の温度は八十五度。ポットに注ぐ際は、三回円を描くようにして香りを立たせてください。ケーキのカットは、乾燥を防ぐために包丁を少し温めてから」

「はい、八十五度。三回、円を描く……包丁を温める……」


 結衣は、克実の言葉を一言一句復唱しながら、まるでプログラムされたロボットのように正確に動き始めた。

 かつて「既製品は毒」「手作りこそ愛情」と異常なまでのこだわりを持っていた結衣が、今や自分自身の意志を完全に放棄し、ベッドの上の男の「口頭指示」に従うだけのあやつり人形に成り下がっている。

 しかも、結衣の表情は嫌がるどころか、彼の指示通りに動くことで強烈な安心感と優越感を得ているような、薄気味悪い恍惚とした笑みを浮かべていた。


(……な、なにこれ。気持ち悪い……!)

 園美の腕に、ブワッと鳥肌が立った。

「どうぞ、園美ちゃん」

 差し出されたルイボスティーは完璧な温度と香りで、ケーキの断面も一流ホテルのように美しかった。

 しかし、園美にはそれが、得体の知れないカルト宗教の儀式で出された供物のようにしか見えなかった。彼女の愛する「普通で健康な日常」は、このシェアハウスからはすでに完全に消え失せていたのだ。

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