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第33話 狂気の悦び

『いつでもゴミ箱としてお使いください』


 その言葉が、玲奈の脳内でおぞましい呪詛じゅそとなって響き渡る。

 彼をこんな「人間としての尊厳を完全に喪失した機械」に変えてしまったのは、自分たちだ。そして自分は、そんな彼に甘え、自分が最も憎んでいる「生身の人間をモノとして消費する醜悪な客」と全く同じ加害を、無自覚に行っていた。


「あ……ああ……っ」

 玲奈の喉から、空気が漏れるような乾いた音が鳴った。

 激しい自己嫌悪と絶望が、彼女の精神を完全にへし折った。もう、彼に対して「対等な人間としての愛情」など向ける資格はない。自分が彼に向けられるのは、加害者としての歪んだ執着と、モノとして扱う加虐心だけだ。


 玲奈は、力なく床に手をつき、うつむいたまま狂ったように低く笑い始めた。

「……ふふっ、あはは……っ。そう……そうっすよね。あんたはゴミ箱で、アタシのサンドバッグだ。……ただの、都合のいいモノだ」


 (人間同士になれないのなら、いっそ人形同士になりましょう)


 玲奈の心の中で、真っ黒に濁った決意が固まった。

 彼女はゆっくりと顔を上げ、光を完全に失ったうつろな瞳で克実を見つめた。


「……ねえ、橘さん。あなたの顔を叩いていいなら、これもいいのよね」


 玲奈は感情の消え失せた手つきで、克実の毛布を無心で剥ぎ取り、彼の下半身を露わにした。克実が驚愕に目を見開くのも構わず、彼女はその冷たい手を彼のイチモツと這わせ、機械的に奉仕を始める。


「叩くのはさ、痛いからアタシも嫌なんだよね。……でもこれなら、痛くないし、逆に気持ちいでしょ? アタシだけのゴミ箱になってくれるんでしょ? アタシがお店で男どもにされてるのと同じこと、今度はアタシが、ここで、あんたにやるの。人間同士として向き合えないならさ……お互い、ただの人形になろうよ。ねえ、橘さん。アタシを、これ以上一人にしないでよ……」


 涙すら流さず、ただ暗闇の中で虚空を見つめながら、呪文のように自分を正当化する玲奈。彼女にとってこの行為は、性的な欲望ではなく、「自分が被害者モノから加害者(消費する側)へ回ることで、精神の崩壊を防ぐ」ための、あまりにも歪んだ防衛行動だった。


「れ、玲奈様……ッ!お待ちください、お止めください……!」


 克実の脳内に、元ホテルマンとしての強烈な倫理的ストッパーが作動した。いくら自分を地底人と卑下していようとも、高潔なお客様(女性)からこのような卑しい奉仕を受け、その尊い手を汚させるなど、コンシェルジュとして「あってはならない絶対的な非礼」であり、本能的な恐怖と嫌悪が彼を支配した。


 しかし、必死に体を震わせて拒絶しようとした克実の網膜に、玲奈の顔が映り込む。

 その瞳には、一滴の光も、生気もなかった。今にも自らの手で心を粉々に噛み砕いてしまいそうな、限界を超えた「迷えるお客様」の絶望の深淵がそこにあった。


(……ああ、私はまた、致命的な配線ミスを犯すところでした)


 克実の歪みきったプロフェッショナル精神が、玲奈の狂気を「顧客のニーズ」として瞬時にプロファイリングし、脳内補正を完了させていく。


(コンシェルジュたる者が、お客様が『吐き出したい』と望む感情の形を拒むなど、三流のすること。

 玲奈様は今、生身の人間として生きる苦痛に耐えかねて、私を『人形』にすることで、ご自身の心の均衡を保とうとされている。

 私のような社会の産業廃棄物が、彼女の夜の街で蓄積された悍ましいヘドロと、私を壊したという罪悪感を一手に引き受ける『臨時のタン壺・排泄処理装置』として機能できるのであれば――これこそが、この動かない肉体に残された唯一の価値。皆様の未来を守るための、究極のおもてなしではありませんか)


 拒絶の恐怖は、一瞬にして「役に立てる喜び」という名の狂気の悦びへと変換された。克実は激しくガタガタと震えながらも、その顔に、暗闇をも照らすような極上のコンシェルジュ・スマイルを張り付かせた。


「……失礼いたしました、玲奈様。私のようなジャンク品が、お心のままに消費される玩具になれるのであれば、これ以上の誉れはございません。

 どうぞ……お好きなだけ、私をただのモノとして、お使いくださいませ」


「……ふふっ、あはは……っ。そう……そうっすよね。あんたはゴミ箱で、アタシのサンドバッグだ。……ただの、都合のいいモノだ」


 人間同士になれないのなら、いっそ人形同士になりましょう。


 夜の店で男たちを癒やす彼女が、深夜のリビングで、今度は己の心を繋ぎ止めるために「壊れた人形」を慰み者にする。

 互いに人間性を放棄し、底なしの依存という名の地獄へと落ちていく。玲奈の心は、この日を境に完全に死滅し、ただ克実という「モノ」を執拗に独占しようとする狂気の歯車へと成り果てたのだった。

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