第32話 出された右頬
男の醜い欲望の掃き溜めで、自分自身すらも汚らしいモノとして扱われ続けた夜。どんなに金を積まれても決して埋まらない心の空洞を、克実の言葉が優しく、しかし確実に満たしていく感覚があった。
(なんで……なんであんたが、アタシのことをそんな風に全肯定するのよ……。アタシが、あんたの人生を壊したのに……っ)
玲奈の肩が小刻みに震え始める。暗闇の中、彼女は無意識のうちに、かつて自室で心の隙間を埋めてくれたぬいぐるみにすがりつくように手を伸ばした。ベッドの端に置かれた克実の左腕――すでにギプスは外されているものの、拘縮してうまく動かないその腕――を、両手でそっと優しく覆うように触れる。
硬く、生気のない腕の感触。しかし、そこには確かに温かい血が流れている。
絶対に自分を否定せず、裏切らない存在。
玲奈の荒みきった心の中に、彼に対する歪んだ依存と、おぞましい庇護欲の芽が、静かに、そして急速に根を張り始めていた。
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玲奈は、克実の動かない左腕を両手で包み込んだまま、堰を切ったように言葉を吐き出し始めた。
「……アタシさ、毎日毎日、気持ち悪いおっさんたちの相手してんの。金払えば何してもいいって思ってる、最低なカス共の処理」
ポツリと漏れた一言は、やがて濁流となって玲奈の口から溢れ出した。
男たちの醜悪な欲望、薄暗い個室に染み付いた体液と安い石鹸の匂い。心を殺して笑い続ける苦痛。そして、いつか海外へ行って静かに暮らすという、たった一つの希望だった夢が消えていく絶望。
すべてを克実のせいにするわけではない。ただ、どうしようもなく理不尽な自分の人生への呪詛だった。
克実は、玲奈の言葉を一切遮らなかった。
同情を引くような安っぽい慰めも、的外れなアドバイスも口にしない。玲奈が息を継ぐ完璧なタイミングで、ただ小さく、深く頷く。元コンシェルジュとして培われた「究極の傾聴スキル」。相手が吐き出したい感情の形に合わせて、己を透明な器へと変え、どんなに汚いヘドロのような感情でも一滴残らず受け止める。
玲奈は、克実のその静かで絶対的な肯定に、冷え切っていた心がじんわりと温められていくのを感じた。
(この人は、アタシを否定しない。アタシの汚い部分を全部見ても、見下したりしない……)
過去に「君の内面が好きだ」と甘い言葉を囁いた男たちには、結局金と体目的で裏切られた。生身の人間を信じることをやめ、部屋のぬいぐるみにしか愛情を注げなくなっていた玲奈にとって、今目の前で自分のすべてを受け入れてくれる克実は、初めて見つけた「人間同士の温かい繋がり」に思えた。
数十分後、胸の奥底に溜まっていた黒い感情をすべて吐き出し終えた玲奈は、憑き物が落ちたように深く息を吐いた。
涙でぐしゃぐしゃになった顔を拭い、玲奈は克実に向かって、作り物ではない、本当の笑顔を向けた。
「……聞いてくれてありがとう、橘さん。橘さんって、本当に優しいね。アタシ、橘さんがいてくれて……ううん、生きててくれて、本当によかった」
心からの感謝と、人間としての好意。
しかし、その温かい言葉を受け取った克実の顔には、喜びの色は一切浮かばなかった。
代わりに浮かび上がったのは、極端に申し訳なさそうな、ひどく歪んだ卑屈な笑みだった。
「とんでもございません、玲奈様」
克実の深く温かい声が、玲奈の鼓膜を震わせた。
「私のような、何の役にも立たない『汚らしいゴミ箱』に向かってなら、どんな心の汚物でも気兼ねなく吐き出しやすいでしょうから」
「え……?」
玲奈の笑顔が、ピクリと凍りついた。
「私のようなタン壺もどきが、玲奈様の心に溜まった痰や膿を処理する『便利な装置』として機能できたのであれば、これ以上の誉れはございません。いつでも、どんな時でも、ただの吐きダメとしてお使いください」
克実の言葉には、一切の嫌味が含まれていない。本心から、自分を「感情の排泄を処理するだけのモノ」だと信じ切っている。
さらに克実は、動かせる右手を持ち上げると、自身の頬をパンパンと軽い音を立てて叩いた。
「もし、言葉を吐き出すだけでは玲奈様のストレスが解消されないのでしたら、どうぞその手で、私の顔を思い切りひっぱたいていただいて構いません。私のような壊れた土偶は、玲奈様のサンドバッグとして殴られるためにここに存在しているのですから。さあ、どうぞ遠慮なく」
右頬を差し出し、本気で自分を殴るようアピールする克実。
その純粋な自己破壊と異常な奉仕精神を目の当たりにし、玲奈の全身から一気に血の気が引いた。
(……アタシは、今……この人に、何をした……?)
玲奈は、克実の左腕を包み込んでいた自分の両手を、弾かれたように離した。
自分は彼に「人間としての共感」を求めたつもりだった。だが、彼から返ってきたのは「便利なゴミ箱としての機能」だけ。
男たちが、金で玲奈の体をモノとして扱い、性欲やストレスを処理するゴミ箱として使っているのと同じように。玲奈もまた、自分の身代わりになって骨を砕かれた哀れな被害者を、自分の愚痴を処理させる「都合よく喋る特大のぬいぐるみ」として扱ってしまったのだ。




