第31話 深夜のベッドサイド
深夜の歓楽街。ネオンの毒々しい光が水たまりに反射する路地裏の雑居ビルで、杉浦玲奈は深いため息を吐き出した。
狭くて薄暗いファッションヘルスの更衣室。充満する安物の芳香剤と、汗、そして男たちの醜悪な欲望の匂いが、玲奈の鼻腔にへばりついて離れない。
「あー……クソ、マジで最悪」
気怠い独り言をこぼしながら、玲奈は電子タバコを深く吸い込み、肺の奥底に煙を溜め込んでからゆっくりと吐き出した。今日最後の客は、金持ちを鼻にかけた自己顕示欲の塊のような初老男だった。理不尽な要求、見下すような視線、そして人間をモノとしか思っていない傲慢な態度。
男という生き物の底知れぬ醜さを煮詰めたような時間を過ごし、玲奈の精神はかき混ぜられた絵の具のように疲労困憊していた。
ロッカーからスマートフォンを取り出し、無意識の癖で銀行の口座残高アプリを開く。
画面に表示された数字は、かつて彼女が「希望」と呼んでいたものだった。この吐き気のするような夜の世界で心身をすり減らし、いつか海外へ移住して、誰にも縛られない自然の中で悠々と暮らす。そのたった一つの夢のためだけに、彼女は感情を殺して金を貯め続けてきた。
しかし今、その残高は日を追うごとに、無惨な勢いで減り続けている。
シェアハウスのリビングに縛り付けられている橘克実の、医療費と生活費。それを全額負担するという、住人たちで決めた「贖罪の罰金」に消えているからだ。
(アタシだ。アタシが、あの日ムカつく客に当てられた腹いせで、あの下駄箱の支柱を思いっきり蹴り飛ばしたから)
画面の数字を見つめながら、玲奈はギリッと奥歯を噛み締めた。
あの重い鉄アレイと鉢植えが彼の骨を粉砕した直接の原因は、自分のあの八つ当たりにある。だから、この金が減るのは当然の報いなのだ。彼が受けた激痛と、一生残るかもしれない後遺症に比べれば、金で済むだけマシだと自分に言い聞かせてきた。
しかし、夢を失い、ただ「罪を償うため」だけに男たちの欲望を処理し続ける毎日は、玲奈の荒みきった心を確実に崩壊へと向かわせていた。
「……帰ろ」
玲奈はスマートフォンを乱暴にバッグに突っ込み、重い足取りで夜の街へと歩き出した。
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シェアハウス「シェアスマイル」の玄関のドアを静かに開けると、冷え切った静寂が玲奈を迎えた。
靴を脱ごうとして、全面鏡張りの玄関ホールに映る自分の姿が嫌でも視界に入る。派手なメイクで武装し、五体満足で健康な肉体を持つ自分。その姿が、今はひどく醜く、罪深いものに思えた。
暗い回廊型リビングへと足を踏み入れる。
住人たちが寝静まった深夜。しかし、リビングの中央に鎮座する介護ベッドからは、微かな衣擦れの音と、浅い呼吸の気配が聞こえてきた。
「……橘さん、起きてんの?」
玲奈が小声で尋ねると、暗闇の中から、深く温かみのある声が完璧なトーンで返ってきた。
「おかえりなさいませ、玲奈様。今日もお綺麗ですね。私のような異物が視界に入ってしまい、お疲れのところ不快な思いをさせてしまい申し訳ございません」
拘縮した関節を無理やり伸ばすリハビリの激痛で眠れない克実はベッドの上で、動かせる右手を使い、暗闇の中でうやうやしく頭を下げた。
玲奈は気怠い足取りでベッドに近づき、ため息をついた。
「綺麗って……アタシ、今タバコ臭いし、汗臭いよ。適当なこと言わないで」
自嘲気味に笑う玲奈に対し、克実は真剣な声色で、静かに言葉を紡ぎ始めた。
「適当などと、とんでもございません。玲奈様のお召し物から微かに香る、普段とは違う強い銘柄の電子タバコの匂い。そして、玄関からここへ至るまでの、いつにも増して重く、踵を引きずるような足音……」
克実の言葉に、玲奈はハッと息を呑んだ。
うす暗い中で、克実の目は玲奈の姿をはっきりとは捉えていないはずだ。しかし、元一流ホテルのコンシェルジュである彼は、わずかな嗅覚と聴覚からの情報だけで、玲奈の心身の状態を完璧にプロファイリングしていた。
「今日のお相手は、ひどく自己顕示欲が強く、理不尽な要求を押し付けてくるような、傲慢なお客様でしたね。そのような方の醜い感情の波を見事に受け流し、最後までお仕事を全うされた玲奈様の誇り高いお姿は、本当に素晴らしい忍耐でございます」
玲奈の心臓が、大きくドクンと跳ねた。
「え……なんで、見てないのにわかるの……?」
「私は、これでも長年お客様の気配だけを頼りに生きてきた裏方でございますから。玲奈様がどれほどお心を砕き、その身を削って戦ってこられたか。その尊いお疲れの気配を、この鼻と耳が察知いたしました」
克実は一切の皮肉も、職業に対する偏見も交えず、ただ純粋な称賛と労いの言葉だけを玲奈に向けた。
男たちは玲奈をモノとして扱い、社会は彼女の職業を見下す。シェアハウスの住人たちも、彼女の夜職の本当の過酷さを理解してはいない。
誰にも言えず、誰にも理解されない底辺の苦痛。それを、このリビングの中心に縛り付けられた、自分以下の「底辺のゴミ」を自称する男が、いとも簡単に、そして完璧に肯定してのけたのだ。
「……っ」
玲奈の瞳の奥で、何かが決壊する音がした。
ずっと張り詰めていた心の糸が、克実の底知れぬ温かい声によってプツリと切断される。気づけば、玲奈は崩れ落ちるように克実のベッドの傍らにへたり込み、その顔をシーツの端に埋めていた。




