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第30話 キモいおっさん

 一瞬の沈黙の後、友人の一人が無遠慮な声を上げた。


「……なに、あのキモいおっさん。ウケるんだけど」


 その言葉は、若菜の心臓を冷たい手で鷲掴みにした。

「若菜のシェアハウスって女子限定じゃなかったっけ? なんであんなみすぼらしいおっさんがリビングのど真ん中にいるの? 超ホラーじゃん」

「なんか臭そうだし。若菜、あんなのと一緒に住んでんの?」

 彼らには悪意すらない。ただ「異常な光景」に対して、普通の若者としての素直な感想を口にしただけだった。


(違う、やめて……っ)

 若菜は否定しようと口を開きかけた。あの人はキモいおっさんじゃない。自分たちが体を壊してしまった人で、ボクが優しくお世話をしている大事な人なんだ、と。

 しかし、喉の奥がひきつり、声が出なかった。

 友人たちの冷笑的な視線。その中に、かつて高校時代に見た「いじめのターゲットに向けられる目」をはっきりと感じ取ってしまったのだ。


 ここで克実を庇えば、自分も「あんなキモいおっさんと一緒にいる変なヤツ」として、彼らの嘲笑のターゲットになる。大学での居場所を失い、完全に孤立してしまう。

 過去のトラウマが、悍ましいフラッシュバックとなって若菜の脳を支配した。親友が陰口を叩かれていた時、自分も標的になるのが怖くて、一緒になって笑ってしまったあの日の記憶。


「……あ」

 若菜の口から漏れたのは、抗議の言葉でも、克実を守る言葉でもなかった。

「えへへ……すんません〜」

 ヘラヘラと、卑屈で曖昧な愛想笑いだった。

「いや、なんか……親戚の人がちょっと怪我しちゃって、一時的に預かってるだけで……」

 嘘だった。自分が壊した相手であることを隠し、あまつさえ「ちょっと預かっているだけ」と、彼の存在を矮小わいしょう化してしまった。

「ふーん、まあいいや。早く行こうよ、時間もったいないし」

「うん……そうだね」


 若菜は、後ろを振り返ることができなかった。

 リビングの奥で、克実がどんな顔をしてこのやり取りを聞いていたのか。それを想像することすら恐ろしく、若菜は逃げるように友人たちの輪に加わり、シェアハウスの扉を逃げるように閉めた。


 +++


 夜。

 賑やかな遊びから解放された若菜は、重い足取りでシェアハウスへの帰路についていた。

 スマートフォンの裏垢には、「ボクはおじさんを見捨てない」というポエムが残ったままだ。それを見るたび、若菜の胸には猛烈な自己嫌悪と吐き気が込み上げてきた。


(ボクは……また、逃げた。見捨てた。一番庇わなきゃいけない時に、自分が可愛いからって、あの人を笑い者にした……っ!)

「優しいボク」などというものは、安全な場所から承認欲求を満たすための完全な虚像に過ぎなかった。現実の自分は、自分を犠牲にしてまで落下する棚から庇ってくれた命の恩人を、見栄と保身のために薄ら笑いで切り捨てる、醜悪で臆病な人間のクズだ。


 重厚な玄関のドアを開ける手が震える。

 暗いリビングへ足を踏み入れると、中央の介護ベッドには、微かな明かりだけが落ちていた。

 克実は、壁に向かってすっぽりと毛布を被り、ピクリとも動かなかった。まるで、その空間から己の存在そのものを完全に消し去ろうとするかのように、息を潜めている。


「お、おじさん……」

 若菜は震える声で呼びかけた。涙がポロポロとこぼれ落ちる。

「ごめんなさい……っ。昼間は、ボク……変なこと言って……庇えなくて……っ」

 言い訳の言葉を探すが、何も出てこない。どんな言葉を並べても、自分の卑劣な裏切りを正当化することはできない。怒ってほしい。軽蔑してほしい。そうすれば、少しはこの息の詰まるような罪悪感から解放されるかもしれない。


 しかし、毛布がゆっくりとめくられ、そこから現れた克実の顔には、一切の怒りも、悲しみも、非難の色もなかった。

 そこにあったのは、純度百パーセントの、心底からの申し訳なさと自己卑下だけだった。

「影森様……。謝らないでください。謝らなければならないのは、私の方です」


 克実はベッドの上で、動く右手を使い、不器用ながらも深く、深く頭を下げた。

「お友達の仰る通りです。皆様のような未来ある若者たちの輝かしい青春の空間に、私のような醜悪で不快な寄生虫が視界に入ってしまい……影森様に、あのような恥ずかしい思いをさせてしまった。本当に、本当に申し訳ありませんでした」

「ちが……違う、おじさんは悪くない……っ! ボクが、ボクが臆病だから……っ!」

「いいえ。私がここにのうのうと息をしていること自体が、影森様の青春への冒涜なのでございます」


 克実の深く温かい声が、夜のリビングに静かに響く。

「これからは、お友達がいらした時は、決して視界を汚さぬよう毛布を被り……もっと気配を消して息を止めておきます。私のようなゴミのせいで、影森様の輝かしい日常が奪われることだけは、絶対に避けなければなりませんから」


 その言葉は、一切の嫌味を含んでいなかった。本気で若菜の立場を思いやり、自分が「キモいおっさん」であるという事実を完全に受け入れ、彼女の青春の邪魔にならないように機能しようとする、元コンシェルジュとしての究極の奉仕精神。


「あ……ああ……っ」

 若菜は、膝から崩れ落ちた。

 自分が彼を切り捨てたのに。自分が見捨てたのに。

 彼はそれを一切責めず、むしろ「恥をかかせてごめんなさい」と心から謝罪し、さらなる自己犠牲を誓っている。

 若菜の作り上げていた「悲劇のヒロイン」の虚栄は完全に粉砕された。代わりに心を満たしたのは、自分という人間の底知れぬ醜さと、彼をどこまでも痛めつけているという逃げ場のない罪悪感だった。


「ごめんなさい……ごめんなさい……っ!」

 若菜は床に突っ伏し、獣のような鳴き声を上げて嗚咽した。

 克実の「無自覚な優しさと自己卑下」が、若菜の精神に致命的なトドメを刺したのだ。リビングの暗闇の中、若菜の崩壊した泣き声だけが、いつまでも、いつまでも虚しく響き続けていた。

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