第29話 満たされる承認欲求
「ふふっ」
影森若菜は、自室のベッドに寝転がりながらスマートフォンの画面を見つめ、にやけ顔を抑えきれずにいた。
裏垢のSNSに投稿した短い文章には、続々と「いいね」と賞賛のコメントが寄せられている。
『今日も週末の予定をキャンセル。ボクのちっぽけな手でも、あの人の痛みを少しでも和らげられるなら、自分の時間なんて全部捨ててもいい』
『ワッカちゃん、本当に優しいね!』
『無理しすぎないでね。えらいよ』
画面越しに向けられる無責任な称賛の言葉が、若菜の乾ききった心を麻薬のように満たしていく。
高校時代、いじめられた親友を愛想笑いで見捨ててしまった、臆病で空っぽな自分。しかし、今の自分は違う。自らの青春を犠牲にしてまで、傷ついた哀れな命を守り抜こうとしている「優しいボク」なのだ。
住人たちが無知で組み上げたグラグラの棚が、一人の男の骨を粉砕したという悍ましい加害の事実。若菜は、ネット上の「悲劇のヒロイン」という虚像で自己を塗り固めることでしか、崩壊寸前の精神を保つことができなくなっていた。
「よし、今日も『優しいボク』を頑張らなきゃ」
若菜は気合を入れるように小さく呟き、スマートフォンをポケットに突っ込んで部屋を出た。
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リビングへ向かう途中、洗面所のドアが少しだけ開いていることに気づいた。
隙間から中を覗くと、洗面台の鏡の前に遠藤美月が立ち尽くしている。
美月の右手には、仕事用の商売道具であるシザーケースから抜き出されたハサミが握られていた。しかし、その手は尋常ではないほどにガタガタと震えている。
(美月さん……?)
先日、美月が橘克実の髪を切ろうとして、トラウマによるパニックで彼の頬を傷つけてしまった事件。それ以来、美月は仕事にも行けず、部屋に引きこもりがちになっていた。
「ウチは……ウチの手は、人を傷つけるためのものじゃないのに……っ」
美月は鏡に映る自分を睨みつけながら、呻くように呟く。いつもなら会話の合間に人差し指と中指をシャキシャキと動かす癖があったはずだが、その指は硬直したように動かない。ハサミを握るたびに、克実の頬を切り裂いた感覚と、あの黒光りする鉄アレイが彼の骨を粉砕した記憶がフラッシュバックするのだ。
カランッ、とハサミが洗面台に滑り落ちる。美月は両手で顔を覆い、しゃがみ込んでしまった。
若菜は息を潜め、そっと洗面所から離れた。
シェアハウスの住人たちが、確実に壊れ始めている。その異常な空気を肌で感じながらも、若菜は己の心に必死に蓋をした。
(ボクは違う。ボクはちゃんと、おじさんの面倒を見てる。ボクは偉いんだ、違うんだ……)
そう自己暗示をかけながら、若菜は回廊型リビングへと足を踏み入れた。
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リビングの中央には、医療用の介護ベッドが鎮座している。
両足と左腕をだらりと放り出していた克実は、壁際を見つめながら静かに横たわっていた。
「おじさん、おはよう。お水、飲む?」
若菜が「優しいボク」の表情を作って声をかけると、克実は弾かれたように首を回し、顔を真っ赤にして極上の笑みを浮かべた。
「影森様! おはようございます。私のような老害に、朝の貴重なお時間を割いてお声をかけていただけるなんて、万死に値する大罪でございます……っ」
「いいんだよ、おじさん。ボクがやりたくてやってるんだから」
若菜がペットボトルのストローを口元へ運んでやると、克実は涙ぐみながらそれを含んだ。
「ああ、なんという慈悲深さでしょうか。影森様のような美しく高潔な方が、私のような悪臭を放つジャンク品の世話を焼くなど……。神仏でもこれほどの優しさは持ち合わせておりません。どうか、私にかまわず、影森様の輝かしい青春の時間を謳歌してください」
一切の嫌味を含まない、本心からの自己卑下。
若菜はその過剰な感謝を一身に浴びることで、己の承認欲求が満たされていくのを感じていた。自分が彼を壊した加害者であるという事実が、この瞬間だけは「彼を救う聖女」へとすり替わる。
「大丈夫だよ。ボクはおじさんを見捨てたりしないから」
若菜が優しく微笑んだ、その時だった。
ピンポーン、と玄関のインターホンが軽快な電子音を鳴らした。
「あれ? 誰だろう」
若菜は小走りで玄関ホールへと向かい、重厚なドアを開けた。
「やっほー、若菜! 迎えに来たよー!」
そこに立っていたのは、大学のバドミントンサークルの友人たちだった。男女数人のグループが、華やかな笑い声を上げて玄関先に群がっている。
「えっ!? なんで……」
「なんでって、今日みんなでボーリング行く約束してたじゃん! 最近全然付き合い悪いから、強制連行しに来たの!」
友人の一人が、笑いながら若菜の腕を引っ張ろうとする。
若菜は頭が真っ白になった。シェアハウスの構造上、玄関にはプライバシーを守るための廊下が存在しない。扉を開け放てば、全面鏡張りの玄関ホールの奥、リビングのど真ん中に鎮座する介護ベッドが完全に丸見えになってしまうのだ。
「あっ……ちょっと待って、ダメ……!」
若菜が慌てて扉を閉めようとしたが、時すでに遅かった。
友人たちの視線が、若菜の肩越しに、リビングの中央へと向けられた。
そこには、介護用ベッドの上で、両足と片腕をだらりとさせた小柄なおっさんが、極端に身を縮めて横たわっている。




