第28話 老眼鏡のゆくえ
七月の夕暮れ時。西日が差し込むシェアハウスのリビングには、どこか粘り気のある生温かい空気が漂っていた。
オープンすぎるアイランドキッチンでは、神崎結衣が夕食の準備に取り掛かっている。トントンと包丁がまな板を叩くリズミカルな音だけが、静まり返った室内に響いていた。
リビングの中央に鎮座する介護ベッドの上では、橘克実が老眼鏡をかけて新聞を読んでいた。両足と左腕をまだうまく使うことはできないが、体を左右に振りながら使える右手を起用に動かしている。彼にとって、活字を追うことだけが唯一の気晴らしだった。
そこへ、学校から帰ってきていた十歳の凛が、パタパタと足音を立てて克実のベッドに近寄ってきた。
「おじさん、目も悪いの?」
無邪気な瞳で覗き込んでくる凛に対し、克実は新聞から目を離し、極上の、しかしひどく空虚な笑みを浮かべた。
「そうなんです。おっさんの私は体の全てどころか、頭の中身まで腐り切っているのです。でなければ、女性ばかりのこんな美しい場所に、平気でいられるわけがありえるはずがないのですから」
克実の言葉には、一片の皮肉も含まれていない。本心から自分を「腐ったゴミ」だと信じ込んでいるからこそ出る、純粋な自己卑下だった。
しかし、まだ十歳の子供である凛には、その異常な精神構造の裏側にある絶望など理解できない。彼女はただ、大人が発した言葉を言葉通りに受け取った。
「へー。よくわからないけど、腐ってるんだ。だからいつも臭いんだね」
子供特有の、一切の悪気がない純粋な残酷さ。
「ところで、どのくらい目が悪いの?」
興味津々に尋ねる凛に、克実は自身の顔から老眼鏡を外し、うやうやしく差し出した。
「よろしければ、眼鏡をかけてみますか? ただ、私のような底辺の脂がついていて、臭いかもしれませんが」
「わーい、貸して貸して!」
凛は克実の手から老眼鏡をひったくるように受け取り、自分の小さな顔にかけた。
大人用の度の強いレンズ越しに見る世界は、ぐにゃりと歪んでぼやけている。
「あははっ! なにこれ、すっごく変! おじさんの目、ぐちゃぐちゃだー!」
凛はおかしくてたまらないといった様子で、無邪気に笑いながらリビング中を走り回り始めた。
克実の視界はぼやけ、活字を読むこともできなくなってしまったが、彼の心は温かな喜びに包まれていた。
(私のような腐敗物の持ち物でも、凛様の笑顔の理由になれた……。こんなに嬉しいことはない)
克実はぼんやりとした視界の中で、キャッキャと笑う凛の声を、聖歌でも聴くかのように心地よく受け入れていた。
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しばらくして、リビングのテレビから軽快な音楽が流れ始めた。
克実が毎日楽しみにしている、夕方の再放送ドラマのテーマソングだ。こればかりは、ぼやけた視界では楽しむことができない。
「あの、凛様……。申し訳ありませんが、そろそろ眼鏡を返していただけないでしょうか?」
克実がベッドの上から、申し訳なさそうに声をかける。
しかし、テンションの上がっている凛は、眼鏡をかけたままベッドの周りをぐるぐると逃げ回った。
「えー、やだやだ! 凛、もうちょっとこれで遊ぶの!」
「お、お願いします、凛様……。その眼鏡がないと、私にはテレビの画面が……っ」
身動きが取れない克実は、ベッドの上で上半身だけをよじり、必死に懇願した。
その光景は、誰の目から見ても異常だった。三十八歳の大人が、自分の所有物を返してほしいと、十歳の子供に対して涙ながらに土下座せんばかりの勢いで哀願しているのだ。
そして凛は、それを「楽しい追いかけっこ」か何かだと勘違いし、動けない克実をからかうように笑い声を上げている。
「凛! あなた、何をしているの!」
鋭い怒声がリビングに響き渡った。
キッチンから出てきた母親の結衣が、血相を変えて二人の間に割って入ったのだ。
結衣の目には、娘の凛が、動けない克実から無理やり眼鏡を奪い取り、立場の弱い彼をいじめて楽しんでいるようにしか見えなかった。
「ママ……」
凛は結衣の凄まじい剣幕に驚き、ビクッと肩をすくませた。
結衣はズカズカと凛に歩み寄り、その顔から老眼鏡を奪い返すと、克実のベッドの脇に置いた。
「凛! 橘さんはお怪我をして動けないのよ! それなのに、大事な眼鏡を取り上げていじめるなんて、ママはそんな悪い子に育てた覚えはありません! 今すぐ橘さんに謝りなさい!」
結衣の怒りは、単なるしつけの範疇を超えていた。「完璧な母親」でありたいという彼女のアイデンティティが、自分の娘が「弱者を虐げて喜ぶ残酷な人間」に育ちつつあるという現実を突きつけられ、パニックを起こしていたのだ。
凛は結衣の顔色を窺いながら、不安な時に必ず出る「自分の髪の毛を強く引っ張る癖」を見せた。
そして、大人の顔色を窺うだけの、完全に心のこもっていない上辺だけの声で口を開いた。
「……ごめんね。腐ったおっさん」
ピキリ、と。結衣の中で何かが決定的に壊れる音がした。
「くさ、った……?」
娘の口から出た、あまりにも無慈悲でグロテスクな暴言。
「神崎様! どうか、凛様を叱らないでください!」
結衣が再び怒鳴ろうとした瞬間、ベッドの上の克実が、首をちぎれんばかりに横に振って叫んだ。
「凛様は何も悪くありません! 凛様はただ、私が腐ったおっさんであるという『正しい事実』を口にされただけなのです! 真実を口にしただけの純粋な凛様を叱るなんて、理不尽すぎます!」
克実は本気で凛を庇い、結衣に向かって涙を流しながら懇願した。
「ちがっ……違うの、橘さん、凛は……っ」
結衣は膝から崩れ落ちそうになるのを必死に堪えた。無意識のうちに、指先が小刻みに、狂ったように動き続けている。
子供の無邪気な残酷さ。
そして、異常なまでに自己評価が低く、その残酷な言葉すらも「至極当然の真実」としてすべて受け入れてしまう、地獄のようなおっさんの存在。
(私が……私が作ったあの棚が、この人の体を壊したから。私がこの人をリビングに縛り付けたから、凛の倫理観までおかしくなってしまったんだわ……)
この異常な空間が、結衣の大切な娘の精神を、確実に、そして取り返しのつかない形に歪め始めている。
自分が「完璧な母親」として注いできたはずの愛情は、自らの犯した罪によってすべて泥にまみれ、娘を「怪物」へと変えるための養分になっていたのだ。
「ああ……ああああっ……」
結衣は両手で顔を覆い、キッチンに逃げ込むとその場にうずくまった。
リビングからは、再放送ドラマの明るいテーマソングと、克実の「凛様、遊んでいただいてありがとうございました」という異常な感謝の言葉が聞こえてくる。
母親としての誇りも、精神も、すべてがゴリゴリと音を立てて削り取られていく。結衣はキッチンの冷たい床の上で、声を殺して泣き叫ぶことしかできなかった。




