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第27話 短冊の呪詛

 七月に入り、梅雨明けを目前に控えた重たく湿った空気が、街全体を覆っていた。


 大学のキャンパスの中庭で、影森若菜はスマートフォンの画面に視線を落としていた。

「ねえ若菜、今日の練習終わったらみんなでカラオケに行かない? 最近全然サークル顔出してないじゃん」

 声をかけてきたバドミントンサークルの友人に、若菜は顔を上げ、曖昧な、しかしどこか影のある微笑みを浮かべた。

「えへへ、すんません〜。誘ってくれて嬉しいんだけど、今日もちょっと急いで帰らなきゃいけなくて」

「えー、また? 最近ずっとそれじゃん。なんか急いで帰る理由でもあんの?」

 友人の怪訝な視線に対し、若菜はわざと少しだけ声を落とし、儚げな表情を作った。

「……僕がいないとダメな人が待ってるから。大事な人のお世話の時間なんだ」


 友人たちは顔を見合わせ、あからさまに引き攣った笑いを浮かべた。

「あ、そ、そうなんだ……。まあ、無理しないでね」

 そそくさと離れていく友人たちの背中を見送りながら、若菜はキャンパスから逃げるように足早に歩き出した。サークル内で自分が浮き始め、孤立していく実感はあった。しかし、今の若菜にとって、その孤立は不思議と心地よいものだった。


 シェアハウス「シェアスマイル」に帰宅した若菜は、リビングのベッドに縛り付けられている橘克実を直視しないよう、逃げるように自室へと駆け込んだ。

 電気もつけず、ベッドに倒れ込んで裏垢のSNSを開く。

「今日も周りの誘いを断って帰宅。ボクのちっぽけな手でも、あの人の命を繋ぐことができるなら、青春なんて全部捨ててもいい」

 短いポエムを投稿すると、すぐに反応の通知が鳴り始めた。

「若菜ちゃん偉いね」「優しいね」「無理しすぎないでね」

 画面越しに向けられる無責任な称賛の言葉が、若菜の乾ききった心を麻薬のように満たしていく。

 高校時代、いじめられた親友を愛想笑いで見捨てた臆病で空っぽな自分。そんな浅はかな少女はもういない。今の自分は、自らの青春を犠牲にしてまで、傷ついた哀れな命を守り抜こうとしている「優しいボク」なのだ。

 住人たちが無知で組み上げたグラグラの棚が、一人の男の骨を粉砕し、その人生を物理的に破壊したという悍ましい加害の事実。若菜は、ネット上の「悲劇のヒロイン」という虚像で自己を塗り固めることでしか、崩壊寸前の精神を保つことができなくなっていた。


 +++


 美容師の美月が自らのハサミで克実の頬を傷つけて以来、シェアハウスのリビングには葬儀場よりも重く冷たい空気が澱んでいた。

 その重苦しい沈黙を破るように、高校教師の藤原琴音が、大きな笹の葉と色鮮やかな短冊のセットを抱えて帰宅した。

「皆さん、もうすぐ七夕です。リビングの空気がいつまでも澱んでいては、橘さんの回復にも悪影響を及ぼしかねません。少し季節感を取り入れて、前向きな気持ちを共有すべきです」

 琴音は中指で眼鏡のブリッジを押し上げ、毅然とした声で宣言した。生徒を導くように、この狂った空間の空気をなんとか正しくコントロールしようとする、彼女なりの必死の足掻きだった。


「そう、だね。橘さんも、その方がきっと喜んでくれるわ」

 神崎結衣も無理に口角を引き上げ、他の住人たちもすがるように笹の飾りに群がった。

 彼女たちは、色とりどりの短冊にペンを走らせる。

「橘さんの足が早く治りますように」

「またみんなで、笑顔で食卓を囲めますように」

 文字に込められているのは、純粋な願いなどではない。自分たちが背負った「一生消えない十字架」を少しでも軽くしたいという、身勝手な贖罪の祈りだった。


「橘さんも、どうか願い事を書いてください。私たちが全力でサポートしますから」

 琴音がベッドの傍らに立ち、赤い短冊とペンを差し出す。

 両足と左腕をまだうまく使うことが出来ない克実は、顔を真っ赤にしてガタガタと震え出した。

わたくしのような星屑の分まで、いや、それだとロマンチックになってしまう。私のようなただのクズの分までこのような美しい短冊をご用意いただけるなんて……。皆様の底知れぬお慈悲には、感謝の言葉もございません」

 克実は脂汗を流しながら、動く右手で不器用に、しかし一文字ずつ丁寧に文字を書き込んだ。

「書けました。藤原様の清らかな手を煩わせてしまい、本当に申し訳ございません」

 琴音は恭しく短冊を受け取り、それを笹の一番目立つ枝へと結びつけた。結衣や若菜たちも、克実がどんな希望を書いてくれたのかと、微かな期待を胸に短冊の文字を見つめた。


 そこには、流麗な字でこう書かれていた。


『皆さんが早く私を忘れて幸せになれますように』


 その一文を目にした瞬間、女性陣の顔から一切の血の気が引き、偽りの笑顔が完全に凍りついた。

「た、橘さん……これ……」

 結衣の指先が、小刻みに震え始める。

 克実はベッドの上で、ポロポロと純粋な自己卑下の涙をこぼしながら、深く頭を下げた。

「私のような一瞬で燃え尽きてもいいような流れ星が、皆様の美しく輝かしい記憶の片隅に一秒でも残ってしまうことなど、万死に値する大罪です。どうか、一秒でも早く私の存在を頭から完全に消し去り、ご自身の素晴らしい人生を謳歌してください……っ。それが、私のただ一つの願いです」


 息が、止まるかと思った。

 女性たちは今、自身の人生と時間をすべて犠牲にして、克実の「完璧な介護」を行っている。それは、彼を物理的に破壊してしまった自分たちの罪を償うための、唯一の免罪符だった。

 しかし、克実はその贖罪の行為すらも「皆様の素晴らしい人生の邪魔」だと認識し、自分のことなどさっさと忘れて捨ててほしいと本心から願っているのだ。


 自分たちが必死に組み上げている「献身的な介護」という名の自己満足が、彼にとってはただの「早く終わらせてほしい過去」でしかないという残酷な事実。

 琴音の手から力が抜け、胸ポケットの赤ペンが虚しい音を立てて床に転がった。

 色鮮やかな飾りが揺れる笹の葉は、希望をもたらすどころか、彼女たちの決して許されることのない罪と、逃げ場のない無間地獄を嘲笑うグロテスクな祭壇として、リビングの中心に不気味な影を落としていた。

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