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第26話 ハサミの刃

 梅雨も半ばを過ぎ、シェアハウス「シェアスマイル」のリビングには、どこか湿気を帯びた重たい空気が滞留していた。

 窓の外で降り続く雨音だけが、静まり返った室内に響いている。


 仕事が休みだった遠藤美月は、ダイニング席の片隅でファッション雑誌をめくっていた。しかし、その視線は活字の上を滑るだけで、意識は常にリビングの中央――医療用ベッドの上へと向かっていた。

 ふと、ベッドの方から「ブチッ、ブチッ」という奇妙な音が聞こえてきた。

 美月が顔を上げると、橘克実が動く右手を使って、自身の頭髪を力任せに引き抜いているところだった。


「ちょっと橘さん!? 何してんの!」

 美月が慌てて駆け寄ると、克実は痛みに顔を歪めながらも、申し訳なさそうに微笑んだ。

「遠藤様……。お見苦しいところをお見せして申し訳ございません。二ヶ月間も放置していたせいで、わたくしのような不潔なちぢれ毛が鬱陶しいほどに伸びてしまいまして……。皆様の美しい視界をこれ以上汚すわけにはいかないと、手っ取り早く引き抜いて処理しようかと……」

 克実の右手には、むしり取られた毛髪が数本、無惨に握りしめられている。自身の毛髪すらも「視界を汚すゴミ」と認識し、自傷まがいの行動で排除しようとするその極端な自己卑下に、美月はゾッと背筋を凍らせた。


「やめてよ、痛いじゃん! 伸びてるなら、ウチが切ってあげるから!」

 美月は美容師としての使命感と、彼に対する罪悪感から咄嗟に申し出た。しかし、克実は血相を変えて首を横に振った。

「とんでもございません! 遠藤様の持つその美しいハサミは、人々を輝かせるための魔法の道具です。ドブネズミの体毛のような私の髪を切って刃を鈍らせるなど、美容師という尊い聖職への冒涜、万死に値します!」

「そんなことないってば! ウチのハサミは人を綺麗にするためのものだから、橘さんだって綺麗になっていいの!」

 美月は半ば強引に克実を説き伏せ、自室から商売道具の入ったシザーケースを持ち出してきた。


 +++


 五十嵐葵による激痛を伴うリハビリの甲斐もあり、克実のガチガチに拘縮こうしゅくしていた関節は、ほんのわずかだが曲がるようになっていた。

 もちろん、動かすたびに激痛が走ることに変わりはない。しかし、克実は「皆様の神聖なベッドに切った毛を落とすわけにはいかない」と強硬に主張し、脂汗を流しながら車椅子へと移乗した。


 リビングの中央。車椅子に深く腰掛けた克実に、美月が手際よくカッティングケープを巻く。

「それじゃ、短くスッキリさせますね」

 美月はシザーケースから愛用のハサミを抜き出し、克実の後ろに立った。

 彼女には、アシスタント時代におしゃべりに夢中になり、成人式を控えた客の髪を失敗して晴れ舞台を台無しにしてしまったという深いトラウマがある。その反動で、彼女は左右非対称であることを極端に許せない完璧主義者になっていた。

 加えて、今回は克実に対する強烈な「贖罪しょくざい」の意味合いも込められている。自分たちが作った欠陥品の下駄箱で彼の体を壊してしまった。だからこそ、せめて自分の持てる最高の技術で彼を小綺麗に整え、少しでも罪を軽くしたいという自己満足に似た必死さがあった。


 シャキッ、シャキッ、シャキッ。


 静寂に包まれたリビングに、小気味良いハサミの音がリズミカルに響き渡る。

 美月は一切の妥協を許さず、異常なほどミリ単位のバランスにこだわって刃を進めていった。克実の頭の形を指先で確かめ、髪の落ちる位置を計算し、丁寧に、そして完璧に切り揃えていく。

(ウチの技術で、橘さんを少しでも快適にしてあげるんだ。ウチのハサミは、誰かを傷つけるためのものじゃない……人を幸せにするためのものなんだから)

 美月は心の中でそう念じながら、ハサミを動かし続けた。


 しかし、カットが中盤に差し掛かり、美月が耳周りの繊細な作業に入ろうとした時だった。


 ガタガタガタッ!


 突然、車椅子に座る克実の体が激しく震え出したのだ。

「えっ? 橘さん、どうしたの? 寒いの?」

 美月が驚いて手を止めると、鏡越しに映る克実の顔は、幽霊のように青ざめていた。額からは滝のように冷や汗が流れ落ち、呼吸は浅く荒くなっている。

「す、すみません……っ」

 克実はガチガチと歯の根を鳴らしながら、ひきつった笑みを浮かべてポツリと漏らした。


「……髪とはいえ、体の一部がハサミで『切断』される音が……耳元で響くと……。あの下駄箱の下で、自分の骨がバキバキと砕け、切り離された時の衝撃を……どうしても、思い出してしまって……っ」


 その言葉は、美月の脳髄に鋭利な氷の刃となって深々と突き刺さった。

『ウチ、これ最近買って健康のために筋トレしてんだけど。一番上に置いとくね』

 あの日、屈むのが面倒だというだけの理由で、グラグラの薄い板の頂上に四つの重い鉄アレイを置いた自分の姿が、鮮明なフラッシュバックとなって蘇る。

 あの黒光りする鉄の塊が、克実の右太ももと左腕にピンポイントで直撃し、彼の骨を文字通り「粉砕」したのだ。


「あ……」

 美月の喉から、空気が漏れるような音が鳴った。

(ウチだ……。ウチの置いた鉄アレイが、この人の骨をへし折ったんだ。この人の人生を切断したのは……ウチなんだ……!)


 +++


「遠藤様、申し訳ございません。私の貧弱な精神が、遠藤様の素晴らしい技術の邪魔を……っ」

 克実が必死に震えを止めようと、両肩を抱きしめる。

「ち、違う、橘さんは悪くない……ウチが、ウチのせいで……っ」

 激しく動揺した美月の視界が、涙とパニックで急激に歪み始めた。

 過去の客の髪を切り損ねたトラウマと、克実の骨を砕いたという物理的な加害の事実が、彼女の脳内で最悪の形でスパークする。


「すぐ、終わらせるから……じっとしてて……!」

 美月は逃げるようにカットを再開しようとした。早く終わらせて、彼をこの恐怖から解放してあげなければならない。焦りが彼女の手首を強張こわばらせ、ハサミの角度をわずかに狂わせた。


 シャキッ。


 鈍い感触とともに、克実の体がビクッと小さく跳ねた。

「え……?」

 美月の視線が、刃先へと釘付けになる。

 ハサミの先端が、克実の右の耳たぶから頬にかけての皮膚を薄く小さな切り傷を作っていた。

 ツツーッ、と、一筋の赤い血が克実の頬を伝い、真っ白なカッティングケープの上にポタポタと赤い染みを作っていく。


「あ、ああ……っ!」

 カランッ!

 美月の手からハサミが滑り落ち、フローリングの床に甲高い音を立てて転がった。

「私、また……私、またこの人を傷つけてしまった……っ!!」

 美月は頭を抱え、過呼吸気味に荒い息を吐きながらその場に崩れ落ちた。自分の持っていたハサミが、人を綺麗にするための魔法の道具ではなく、人を切り刻む凶器にしか見えなくなっていた。


「遠藤様! 違います、泣かないでください!」

 頬から血を流しながらも、克実は車椅子の上で土下座をするように身を折り曲げた。

「私が勝手に震えたせいで、遠藤様の神聖なハサミを私の汚い血で汚してしまったのです! すべて私の責任です! どうか、ご自身を責めないでください……っ!」

 自分の顔を切り裂かれたというのに、美容師のハサミを汚したことの方を本気で悔やみ、咽び泣く克実。


「やめて……っ。ウチのせいなの、全部ウチが壊したの……っ!」

 美月は床に這いつくばるようにして、自分の両手を強く握りしめた。

 自分を犠牲にしてまで美月を庇おうとする彼の異常な優しさが、美月の「美容師」としてのアイデンティティを根底からへし折っていた。

 自分がハサミを持てば持つほど、人を傷つける。良かれと思ってやったことが、彼に骨折のトラウマを呼び起こさせ、さらに肉体を傷つけてしまった。

 自分の存在そのものが、彼を苦しめる凶器なのだと悟った美月の心は、真っ暗な絶望の底へと完全に沈み込んでいった。


 リビングには、克実の悲痛な謝罪と、美月の過呼吸のような嗚咽だけが響き続けている。


 美月には、日常的に無意識に行っている癖があった。会話中や考え事をしている時、ハサミを動かすように右手の人差し指と中指をシャキシャキと擦り合わせる癖だ。

 それは、彼女が心から美容師という仕事を愛し、誇りを持っていることの証明でもあった。


 しかし、床にうずくまり、絶望の涙を流す美月の指先は、硬直したようにピタリと止まっていた。

 そして、この日を境に――美月がその指をシャキシャキと動かすことは、二度となかった。彼女の魂から「美容師としての誇り」が完全に死滅したことを、その消失した癖が静かに、そして残酷に物語っていた。

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