第25話 拷問のリハビリ
シェアハウスに戻った後、事態を重く見たのは看護師の五十嵐葵だった。
「このままじゃ、橘さんは本当に一生歩けなくなる。関節の拘縮を解くために、私がリハビリをやります」
夜、リビングのベッドで、葵は悲壮な決意を固めて克実の足に手をかけた。
拘縮した関節を無理やり曲げ伸ばしするリハビリは、健常者には想像もつかないほどの激痛を伴う。
「橘さん、痛みますよ。いきます」
葵が体重をかけ、石のように固まった克実の膝をゆっくりと押し曲げる。
「――ッッ!!」
その瞬間、克実の全身がビクンと跳ね上がり、激しい痙攣に見舞われた。尋常ではない痛みが神経を焼き切り、彼の顔面から一気に血の気が引いていく。
しかし、克実は悲鳴を上げなかった。皆様を不安にさせてはならないと、自身の唇を限界まで強く食いしばったのだ。
プチッ、と肉が裂ける音がして、克実の口角からタラリと鮮血が流れ落ちた。
「橘さん! 唇が……っ、痛いなら痛いって言ってください!」
葵が悲鳴のような声を上げて手を止めるが、克実は血に染まった唇で、歪んだ極上の笑みを作った。
「やめないで、ください……っ。まだいけます。気持ちいいですよ」
ガタガタと全身を震わせながら、克実が懇願する。
「五十嵐様の……患者を救うための清らかな手を、私のようなゴミの足なんかのために疲れさせてしまい……本当に申し訳ありません……っ。こんな使えない枯れ枝の足、どうか……もっと強く曲げて、完全に壊すくらいの気持ちでお願いしまうぅぅ……っ!」
痛みに悶えながらも、医療従事者である葵の手を煩わせていることへの異常なまでの罪悪感と自己卑下。
「あ……ああ……」
葵の手から、力が抜け落ちた。
人を癒やすはずの自分の医療技術が、彼に耐え難い拷問を与え、彼自身に自らの肉体の破壊を望ませている。
(私が……私がまた、この人の心と体を壊しているんだわ)
『病める者の苦痛を和らげ、回復を助ける』――かつて戴帽式で胸に刻んだ、ナイチンゲールの崇高な精神。しかし、今の自分がやっていることはどうだ。己の罪悪感を拭い去りたいという身勝手なエゴのために、目の前の患者に耐え難い拷問を与え、あろうことか自らの肉体の破壊を望ませている。
(私は……白衣を着ただけの悪魔だ。ナイチンゲールの誓いに泥を塗り、看護の精神とまったく逆の加害をしている……っ!)
自身の看護師としてのアイデンティティと精神が粉々に砕け散る音を、葵は確かに聞いた。血を流して微笑む克実を前に、己の醜悪な偽善を激しく呪いながら、葵はただ顔を覆って絶望の底へと沈んでいくことしかできなかった。
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週末の朝。シェアハウス「シェアスマイル」に、洗濯機の稼働音が響いていた。
神崎結衣は、住人たちの洗濯物を仕分けしていた。当然、そこに橘克実の衣服やタオルも女性陣の洗濯物と一緒に混ざっている。
その様子を見ていた十歳の凛が、ふいに顔をしかめて駄々をこね始めた。
「ママ、凛のお洋服と、おじさんの服を一緒に洗うのやだぁ!」
悪気のない、子供特有の残酷なまでの素直さだった。
結衣は血相を変え、凛をきつく叱りつけた。
「凛! なんてこと言うの! そんなことを言ってはいけません、早く謝りなさい!」
しかし、ベッドの上でその会話を聞いていた克実は、怒るどころか、深く納得したように頷いた。
「神崎様、どうか凛様を叱らないでください。凛様の仰ることは完全に正しいのです」
克実は本気で申し訳なさそうに、ベッドの上で身を縮めた。
「若い女性たちのいい匂いのする衣服と、私のようなおっさんの加齢臭が染み付いたボロ布を、同じ水で洗うなんて……そんなこと、神への冒涜です」
極限まで卑下したその言葉に、結衣は息を呑んだ。
「た、橘さん、そんなことないです! 一緒に洗うくらい、全然……」
「いいえ! 絶対に許可できません。私のような底辺の異物の汚れが、皆様の輝かしい衣服に移ってしまいます。私の服は、どうか捨て置いてください」
克実が断固として拒否するため、結衣はそれ以上何も言えなくなってしまった。凛の無邪気な残酷さが、克実の異常な自己評価の低さを肯定してしまい、結衣の心にまた一つ重い石がのしかかった。
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その日の深夜。女性陣が寝静まり、リビングは深い暗闇と静寂に包まれていた。
克実は、ベッドの上で一人、静かに身を起こした。
(私の汚れた衣服を、あの美しい女性たちに洗わせるわけにはいかない……)
克実は、動く右手と自身の口だけを使い、手元にあった洗面器を引き寄せた。そして、飲み水として置かれていたペットボトルのキャップを歯で開け、洗面器の中に水を注ぎ込む。
自身の汗と加齢臭が染み付いたシャツを、なんとか片手で揉み洗いしようとする。しかし、両足と片腕が今だ使えない状態での作業は困難を極めた。
「……っ」
バランスを崩し、洗面器がひっくり返る。大量の水がベッドを濡らし、そのまま床へと滝のようにこぼれ落ちて、床を水浸しにしてしまった。
「ああっ……なんという失態だ……」
克実は慌ててシーツで床を拭こうと身を乗り出し、そのまま冷たいフローリングの床へと転げ落ちた。拘縮した足に激痛が走るが、彼は声を出さなかった。皆様の安眠を妨げることだけは避けなければならない。
濡れた服と冷たい水にまみれながら、克実はただ、芋虫のようにうずくまって朝を待つことしかできなかった。
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翌朝。一番に起きてきた藤原琴音が、リビングの惨状を目の当たりにして悲鳴を上げた。
「た、橘さん!? どうしてずぶ濡れで床に……っ!」
その声に驚き、結衣や葵たちも慌てて各部屋から飛び出してきた。
そこには、水浸しになった冷たい床の上で、濡れたままガタガタと震えながらうずくまる克実の姿があった。
「申し訳、ございません……。私のような汚垢が、皆様の手を煩わせるわけにはいかないと……自分で、洗濯を……」
紫色の唇を震わせながら、克実が必死に謝罪する。
その異常な光景に、結衣と琴音の精神の糸がブツリと音を立てて切れた。
「どうして……どうしてそんなことするんですかぁ!?」
結衣が床にへたり込み、子供のように泣き叫んだ。
「私たちがやってあげるって言ってるのに! なぜ頼ってくれないの!」
「私たちが、あなたをこんな体にしたのに……これ以上、私たちの罪を重くしないでください……っ!」
琴音も両手で顔を覆い、絶望的な嗚咽を漏らす。
克実からすれば、それは「皆様に迷惑をかけないための異常な努力」でしかなかった。
しかし、その一切の悪意のない純粋な思いやりこそが、結果として女性陣の心に「こんな体にした自分たちへのヘイト」を極限まで高める最悪の装置として機能してしまったのだ。
彼女たちが優しくしようとすればするほど、克実の卑屈な善意がそれを跳ね返し、彼女たちの魂をズタズタに引き裂いていく。リビングに響き渡る女性たちの泣き声は、もはや後戻りできない地獄の底の底の底へと完全に堕ちてしまったことを証明していた。




