第24話 配達員への敵意
六月上旬。梅雨入りを告げる重たい雨音が、シェアハウス「シェアスマイル」の窓を打ち付けていた。
「ピンポーン」
玄関のインターホンが鳴り、神崎結衣が小走りで扉を開けた。休日でリビングにいた藤原琴音も、その背後に続く。
「お届け物です。こちらにサインを――」
宅配便の配達員が荷物を差し出しながら、ふと視線を玄関ホールの奥へと向けた。バリアフリー構造のため、玄関からは回廊型リビングの中央が丸見えになる。そこには、ベッドの上で両足と左腕を重いギプスで固められた橘克実の姿があった。
「雨の中、ご苦労様でございます。いつも安全運転をありがとうございます」
克実がベッドの上から、元コンシェルジュとしての完璧な笑みを浮かべて深く頭を下げる。
しかし、その痛々しく無惨な姿を見た配達員は、気の毒そうに眉をひそめて同情の声を漏らした。
「うわ……すごいお怪我ですね。こんなリビングの真ん中で寝たきりなんて、大変ですね……」
悪気のない、ごく一般的な「普通」の反応だった。
だが次の瞬間、結衣と琴音の表情が夜叉のように豹変した。
「大変なんかじゃありません!!」
結衣が配達員から荷物をひったくるように奪い取り、異常な剣幕で怒鳴りつけた。
「この人は私たちが二十四時間、完璧に守ってお世話してるんです! 可哀想なことなんて一つもない! 何も知らないくせに、勝手なこと言わないで!」
「ええ、極めて不愉快です。表面的な状況だけで哀れむなど、侮辱以外の何物でもありません。さっさと帰ってください!」
琴音も中指で眼鏡のブリッジを押し上げながら、冷酷な声で追従する。
「ひっ……す、すみませんっ」
常軌を逸した二人の凄まじい敵意に、配達員は顔を引き攣らせて逃げるように去っていった。
バタン、と乱暴に扉が閉められた後、リビングには重い静寂が落ちた。
「神崎様、藤原様……」
克実が、絶望に満ちた声で呟いた。
「私のような不快な存在が視界に入ったせいで、あの配達員の方の気分を害し、さらには皆様のような美しく高潔な方々に、あのようなはしたない真似までさせてしまった。私はなんて罪深いがらくたなのでしょうか……っ」
自らを本気で呪う克実の言葉に、結衣と琴音はハッと我に返った。
自分たちが今、外部の人間に対してどれほど異様な噛みつき方をしたのか。
(私たちは……もう「普通」じゃないんだ)
彼を自分たちの手で破壊し、このリビングの玉座に縛り付けているという罪悪感。それを正当化するため、「完璧な介護」という狂気の箱庭に依存しきっている自分たちの異常性を自覚しつつも、彼女たちはもう後戻りできない暗闇の底の底にいた。
+++
数日後。
日中、時間の融通が利く結衣は、手配した病人タクシーに付き添い、克実を病院へと連れて行った。
事故から約二ヶ月。ついに、克実の両足と左腕を拘束していた重厚なギプスやニーブレスが外される日が来たのだ。
「骨の癒合は確認できました。今日から車椅子への移乗と、少しずつ足を動かす練習を始めましょう」
医師の言葉に、結衣の顔がパッと明るくなった。
(よかった……これで少しは、橘さんも自由になれる)
「ありがとうございます、神崎様」
診察室のベッドに腰掛けた克実が、極上の笑みを浮かべて結衣を見た。
「これでもう、皆様の神聖な手を煩わせることはありません。自分の足で歩いて、皆様の美しい視界から永遠に消え去ることができます」
そう言って、克実はベッドから車椅子へと自力で立ち上がろうと体重をかけた。
「あ……」
克実の体が、崩れ落ちるようにベッドへ倒れ込んだ。
結衣は息を呑んだ。ギプスが外れて露わになった克実の足は、二ヶ月の絶対安静により筋肉が完全に削げ落ち、まるで枯れ木のように痩せ細っていた。
さらに残酷なのは、関節だった。長期間固定されていたことで、膝や足首の関節がガチガチに固まる「拘縮」を起こしていたのだ。
克実がどれほど気力を振り絞っても、膝は一度たりとも曲がらず、一歩も前に踏み出すことができない。
「どうして……っ。動け、動け……っ。この役立たずのポンコツが……!」
克実は自身の動かない足を右手で何度も殴りつけ、悔し涙を流した。
「やめて、橘さん! ごめんなさい、私たちが……私たちが、あなたをこんな体にしちゃったのよ……っ」
結衣は泣き崩れ、枯れ枝のような克実の足にすがりついた。
二ヶ月間、リビングのベッドに縛り付け、絶対安静を強いてきた。彼を生かすためのその行為自体が、結果として彼の肉体から「歩く機能」を奪い去るという、取り返しのつかない二次的破壊をもたらしていたのだ。




