第23話 絶叫の土下座
シェアハウス「シェアスマイル」の光あふれていた日常は、今や完全に過去のものとなっていた。
葵と彩夏という医療・介護のプロが二人いるとはいえ、彼女たちもフルタイムで働く身である。克実の二十四時間体制の介護を二人だけで担うのは、肉体的にも精神的にもすでに限界を迎えていた。
事態を重く見た葵の提案により、素人である他の入居者――高校教師の琴音や大学生の若菜たちにも協力を仰ぎ、休日のリビングでオムツ交換や清拭のレクチャーが行われることになった。
「……まずは、横を向いていただきます。橘さん、少しお体に触れますね」
葵が手本を見せながら、克実の体を静かに横に向ける。次に手袋をはめた若菜が、おずおずと克実の衣服に手をかけた。
「ひっ……ごめ、ごめんなさい、僕、力加減が……」
「とんでもございません、影森様。私のような汚らしい肉塊に触れさせてしまい、皆様の清らかな手を穢してしまうことこそ、万死に値する大罪です。どうか、親の仇を扱うように乱暴に扱ってください……っ」
克実はシーツを固く握りしめ、顔を真っ赤にしてガタガタと震えながら謝罪し続けた。
続いて琴音が、赤ペンを置いた震える手で清拭用のタオルを絞る。
「手、手順通りに行えば問題ないはずです。……橘さん、背中を拭きますね」
「藤原様、もったいないです! その清潔なタオルが、私の加齢臭で腐ってしまいます……っ!」
克実の過剰なまでの卑下と、若菜や琴音の素人ゆえのぎこちない手つき。する側もされる側も、極限の緊張と気まずさで息を詰まらせていた。
かつては他愛のない会話と笑い声が響いていたリビング。そこは今や、排泄の臭いと消毒液の匂いが混ざり合う、「逃げ場のない牢獄」へと完全に変貌してしまっていた。その事実を突きつけられ、女性陣の心には、底知れぬ疲労と後悔の念が黒い泥のように沈殿していく。
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数日後の午後。夜勤明けの葵と交代し、日中の見守りを担当していた彩夏は、キッチンでハーブティーを淹れていた。
(今日は少し、橘さんも落ち着いているみたい。この香りで、少しでもリビングの波動が浄化されればいいな……)
そんなことを考えながら振り返った瞬間、彩夏の鼻腔を強烈な異臭が突いた。
「え……?」
慌ててリビングの中央へ視線を向けると、ベッドの脇の床に、克実が崩れ落ちていた。
ポータブルトイレへ自力で移動しようとして失敗したのだ。克実はトイレに間に合わず、リビングの床で粗相をしてしまっていたのだ。
「橘さん! ダメですよ、無理に動いちゃ……っ!」
彩夏が駆け寄ろうとした時、克実の取った行動に彼女は言葉を失い、足の裏から冷たいものが這い上がるのを感じた。
両足と左腕をギプスでガチガチに固められた克実は、動く右腕と体幹だけを必死に使い、床に這いつくばっていた。それはまるで、芋虫がのたうち回るような、あまりにも無惨で滑稽な姿だった。
克実そのまま床に額を擦りつけ、完璧な土下座の姿勢をとった。
「申し訳ございません……っ! 申し訳、ございません……っ!」
克実の口から、悲鳴のような絶叫が迸る。
「私のような地底にいるべき地底人が、皆様の美しく神聖な空間を汚してしまった! 生きていてごめんなさい! こんな迷惑な肉塊、いっそ、いっそ、……マリアナ海溝に沈めてください!」
意識を飛ばすほど狂ったように謝罪し、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにして床にすがりつく克実。
三十八歳の、かつては一流ホテルのロビーで誰よりも毅然と立っていた男の、誇りも尊厳もすべてが粉々に砕け散った姿だった。
「橘さん、やめて……っ。謝らないでください、私がすぐに綺麗にしますから……!」
彩夏は泣きそうになるのを必死に堪え、震える手で使い捨ての手袋をはめると、床の汚れと克実の体を拭き上げ始めた。
(私のせいだ……。私の介護人としての波動が弱いせいで、彼はこんなにも自分を追い詰めてしまっているんだわ……)
彩夏はおばあちゃん子で優しく祖母の介護を手伝っていた。しかし、末期に一瞬だけ「早く楽になりたい(解放されたい)」と黒い感情を抱いてしまい、その直後に祖母が他界したという罪悪感を持つ彩夏にとって、克実のこの姿は正視に堪えない地獄だった。
やがて、すべての処理を終え、克実をなんとかベッドの上へと戻した。
真新しいシーツの上で、克実は天井を虚ろな目で見つめていた。先ほどの狂乱が嘘のように、その表情からは一切の感情が抜け落ちている。
「……二之部様」
静まり返ったリビングに、克実のかすれた声が落ちた。
「私のような人間は、早く迎えが来ればいいとお思いになりませんか?」
一切の抑揚のない、静かで、冷え切った言葉。
その一言が、彩夏の心臓を冷たい手で鷲掴みにした。
介護の現場で働き、これまで数多くの老人の最期を看取ってきた彩夏には、今の克実の瞳が何を意味しているのかが痛いほどわかった。
それは、自分の生に一切の価値を見出せず、ただ「死」という名の救済を前提にして待つ者の目だった。
「……っ」
彩夏は、口元を両手で覆い、よろめきながら後ずさった。
まだ三十八歳という若さの彼から、肉体の自由だけでなく、人間としての尊厳、そして「生きる気力」までも完全に奪い去ってしまったのだ。
自分たちの犯した罪の底知れぬ深さと、決して元には戻せない命の重さを悟り、彩夏はリビングの隅に崩れ落ちたまま、声にならない嗚咽を漏らし続けた。




