第22話 涙の室内花見
春のうららかな陽気が窓の外を包む中、シェアハウス「シェアスマイル」の広々とした回廊型リビングには、相変わらず重苦しい空気が澱んでいた。
その中央に鎮座する介護ベッド。両足と左腕を重いギプスで固められた橘克実が、一歩も動けずに横たわっている。
「橘さん! 今日は外がとってもあったかいから、お部屋の中でお花見しましょう!」
美容師の遠藤美月が、買ってきたばかりの立派な桜の枝を抱えて明るい声を上げた。リビングのダイニングテーブルに置かれた花瓶にそれを生けると、淡いピンク色の花びらが無機質な空間に少しだけ彩りを与えた。
外に出られない克実を少しでも慰めようという、彼女たちなりの精一杯の善意だった。
「どうですか? 綺麗ですよね!」
神崎結衣も微笑みかける。しかし、ベッドの上の克実の顔を見た瞬間、女性たちの笑顔は凍りついた。
克実の目から、大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちていたのだ。
「ああ……なんということでしょう。私のような底辺の居候のために、このように美しく咲き誇る桜の枝が、折られてしまったのですね……っ」
「えっ……? いや、これはお花屋さんに売ってたもので……」
美月が慌てて取り繕おうとするが、克実の激しい自己卑下は止まらない。
「私のような存在がここでのうのうと息をしているばかりに、皆様の貴重な金銭を浪費させ、あろうことか罪のない美しい花の木を傷つけてしまった……。自然の摂理すら歪めてしまう私は、生きていてはいけないドブ苔です。本当に、桜にも皆様にも、申し訳ないことを……っ!」
シーツに顔を埋めて咽び泣く克実を前に、女性陣は完全に言葉を失った。
自分たちの良かれと思った行動すらも、彼の異常な精神フィルターを通せば「新たな加害」へと変換されてしまう。彼を慰める手段が何一つないという無力感と、自分たちが彼の精神をここまで歪ませてしまったという罪悪感が、静かに彼女たちの心を削り取っていった。
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「おじさーん! 凛の図工の宿題、どうやったら上手くできるかなあ?」
重い空気を切り裂くように、十歳の凛が無邪気な声を上げてベッドの脇へ駆け寄ってきた。手には画用紙と折り紙が握られている。
「凛! 橘さんはお怪我をしてるんだから、休ませてあげなさい」
結衣が慌てて制止しようとするが、克実は涙を拭い、パッと顔を輝かせた。
「とんでもございません! 凛様、私はいいんですよ。その画用紙の端から三センチのところに折り目をつけ、対角線上に……」
克実はベッドの上から一切動くことなく、元コンシェルジュとしての完璧な空間把握能力と知識を駆使し、的確な指示を出し始めた。
凛が言われた通りに手を動かすと、あっという間に複雑で美しい立体的な飾りが完成した。
「わあ、すごい! おじさん、AIみたい! すっごく便利!」
凛が屈託なく笑う。大人の女性たちは、その言葉にヒヤリと背筋を凍らせた。子供が無邪気に、克実を「便利なスマートスピーカー」のように扱っている。
「こら、凛! そんな言い方……!」
「神崎様、どうか怒らないであげてください!」
克実は感極まったように叫び、再び涙を流した。
「私のような手足をもがれたコケシの知識が、未来ある凛様のお役に立てたなんて……! 私は便利な道具として使っていただけるだけで、これ以上の幸せはございません。いつでも、どんなことでもお申し付けください!」
本気で歓喜の涙を流す克実を前に、結衣たちは注意する言葉すら飲み込むしかなかった。子供の純粋な残酷さと、異常なまでに自己評価の低い男が形成する地獄のような依存関係。それを止めることができない自分たちの無力さに、彼女たちはただ立ち尽くすことしかできなかった。
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その日の夕方。
オープンすぎるアイランドキッチンに立ち、結衣は冷蔵庫の扉を開けてため息をついた。
(買い出しに行けてないし、中身はしなびた野菜と半端なひき肉、あとは賞味期限ギリギリの卵くらい……。どうしよう、橘さんにこれで作った惨めな食事を出したら、今度は何を言われるか……)
結衣が無意識に指先を小刻みに動かしていると、背後のベッドから深く温かい声が響いた。
「神崎様。よろしければ、私の口出しをお許しいただけますでしょうか」
克実の目は、すでに冷蔵庫の中身を完璧に把握していた。
「そのひき肉に、刻んだ余り野菜を混ぜ、卵白だけを加えてよく練ってください。そして、戸棚の奥にあるあの中華スープの素を……」
ミリ単位の切り方、火を入れる秒数、塩を振る高さまで。克実は一歩も動かず、言葉だけで結衣を誘導した。結衣はまるで何かに操られるように、彼の指示通りに指先を動かした。
やがてダイニングテーブルに並べられたのは、絶望的な残り物で作ったとは思えない、高級ホテルのレストランで出てくるような極上の料理だった。
「うわあ……これ、すっごく美味しい!」
帰宅した夜職の玲奈や、看護師の葵たちが目を丸くして舌鼓を打つ。
「結衣さん、料理の腕また上がったんじゃないっすか?」
「あ、ううん。これは、全部橘さんの指示通りに作っただけで……」
結衣は引きつった笑みを浮かべ、自分の手を見つめた。
(今まで私が作っていた物は何だったんだろう)
既製品を敵視し、「手作り=愛情」という強迫観念を持っていた結衣にとって、自分が手間暇かけて作った料理よりも、克実の口頭指示で作った料理の方が皆を喜ばせているという事実は、彼女の「世話焼きの母親」としての存在意義を根本から揺るがすものだった。
「神崎様の手際が素晴らしいからこそ、この程度の食材でも形になったのです。私はただ、寝言のように呟いただけですから……」
克実は心底申し訳なそうに身を縮めている。
その完璧な知性と有能さを目の当たりにするたび、結衣たちの胸には重い鉛が沈んでいく。
(こんなに有能で、魔法みたいな知識を持つ人の体を、私たちが作ったあのグラグラの棚で完膚なきまでに破壊してしまった……。そして今、彼をこのリビングに縛り付けて、私たちがその恩恵に依存している)
生活の質が上がれば上がるほど、自分たちの犯した罪の重さと加害性が浮き彫りになり、彼女たちは彼への依存という名の泥沼から二度と抜け出せなくなっていくのだった。




