第21話 生理現象
季節は春。世間が新生活に浮き立ち、柔らかな風が桜の花びらを舞い上がらせる中、シェアハウス「シェアスマイル」には、重苦しく冷たい空気が横たわっていた。
病人用タクシーで運ばれてきた橘克実が、ハウスへ入居し、回廊型リビングの中央に鎮座する介護ベッドへと横たわった。両足と左腕を重厚なギプスで固められた彼は、一歩も動けない絶対安静期を迎えていた。
「橘さん、何か困ったことがあったら、遠慮なく何でも言ってくださいね」
神崎結衣をはじめとする女性陣全員が、ベッドを囲んで作り笑顔を浮かべて話しかける。しかし、克実はベッドの上から無理に首を曲げ、極端にへりくだった態度で答えた。
「とんでもございません。私のような底辺の異物おじさんが、女性だけの美しい花園に混入してしまい、皆様の生活を汚してしまっていること自体が申し訳なく、万死に値します。どうか、私のことは空気か壁だと思って放置してください」
一切の悪意を持たず、純粋に自分を「底辺の異物」だと信じ込んでいるからこそ、その言葉は女性たちの胸を鋭利に抉った。反論する余地すら与えられず、彼女たちの心には加害者としての罪悪感と後悔が何倍にも増幅してのしかかり、全員が重苦しい面持ちで出迎えることとなった。
その日の夕食。絶対安静の克実のために、結衣は徹夜で出汁を取り、完璧に裏ごしをした流動食を作り上げていた。リビングのダイニングテーブルでは、女性陣が克実を気遣いながら話し少なく食事をとっている。
ベッドの上で、結衣がスプーンで流動食を口へ運ぼうとすると、克実の目からポロポロと涙がこぼれ落ちた。
「神崎様……。私のようなその場にいるだけで空気を悪くさせる逆清浄機のために、これほどの手間をかけたお食事を……。こんな極上のものを口にすれば、罰が当たります。どうかコンビニ弁当、いや、皆様の残飯でいいのでそちらをご提供ください」
咽び泣きながら謝罪する克実を前に、結衣の「手作り=愛情」という強迫観念は、完全に「彼を精神的に追い詰める暴力」へと変換されていた。自分の善意が彼を苦しめているという事実に、結衣の心はゴリゴリと削り取られていく。
深夜。夜職で心身ともに荒みきった杉浦玲奈が帰宅した。
玄関ホールの全面鏡張りで、派手に着飾った「健康で五体満足な自分」の姿を否応なしに見せつけられる。その直後、暗いリビングへと足を踏み入れた彼女の視界に、ベッドの隅で痛みに耐えながら小さく身を縮める克実の姿が飛び込んできた。
「おかえりなさいませ。玲奈様ですね。初めまして橘克実と申します」
「あ、うっす。玲奈です。よろしくっす。なんかあったら言ってくださいね」
「では早速、私の希望といたしましては、みなさんが寝ておられる隙に私を外へ放り出していただきたいというのが正直なところです。こちらでの介護に一度は承諾いたしましたが、皆様の素晴らしいおもてなしに、私には分不相応だと気づかされました」
「え? あ? またまたー。じゃあおやすみっす」
一切の皮肉を含まない、純粋なコンシェルジュとしての気遣い。玲奈は、自分たちが彼の人生を物理的に破壊し、この逃げ場のないリビングの中心に縛り付けているという「視界の暴力」を痛感した。彼女は自室のベッドに逃げ込み、ぬいぐるみを抱きしめながら無音のまま絶望の涙を流した。
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翌日。絶対安静の克実は、自力での移乗すら激痛を伴うため、ベッド上での尿瓶や大人用おむつの使用を余儀なくされていた。
リビングに漂う微かな匂いで事態に気付いた看護師の五十嵐葵が、素早くベッドのカーテンを閉め、おむつ処理の準備を始める。介護ヘルパーの二之部彩夏もプロとして手伝おうと近づいた。
「橘さん、失礼しますね。すぐに綺麗にしますから」
しかし、克実は顔を真っ青にして懇願した。
「お待ちください! 皆様の美しく尊い手を、私のような底辺の排泄物で汚すなんて万死に値します。どうか、どうか手袋を二重三重にしてください……!」
その極端な卑下に、プロであるはずの葵や彩夏は言葉を失う。これは「仕事」ではない。自分たちが壊した「被害者」の世話なのだ。感謝されるどころか、彼が自分自身を極端に卑下するたびに、加害者としての罪悪感が容赦なく抉られる。
その時、リビングで匂いを我慢できなくなった十歳の凛が、窓を全開にし、キッチンの換気扇の強ボタンを力いっぱい押した。
ゴォォォォッという大きな音がリビングに響き渡る。
周りの女性陣は「デリカシーが無い」と顔をしかめながらも、内心では「子供のやっていることだから」と言い訳をしつつ、「自分もくさいと思っていたからありがたい」と感じてしまった。その醜悪な安堵感に気づき、彼女たちは自己嫌悪でさらに激しく心を荒ませていった。
浴室へ行けない克実のため、洗髪は美容師の遠藤美月が担当することになった。彼女は専門知識を活かし、ベッドの上で寝たまま洗髪ができるケリーパッドを使用して克実の頭を洗い始めた。
少しでも空気を明るくしようと、美月はお客に接するように明るい声をかける。
「お湯の温度、熱くないですかー? 痒いところがあったら遠慮なく言ってくださいねっ!」
しかし、克実はガチガチに緊張したまま、悲痛な声で答えた。
「と、とんでもございません。私のようなちぢれた薄毛の鳥の巣頭に、プロの美容師様の極上のサービス……。頭皮のマッサージまでしていただけるなんて、私の残りの寿命を全て差し出しても足りないほどの価値があります」
本気で咽び泣き始める克実。ただ洗髪をしてあげているだけなのに、そこまで過剰な感謝をされることで、美月は彼からどれほど当たり前の日常と尊厳を奪ってしまったのかを痛感した。明るく振る舞おうとした自分の浅はかさが恥ずかしくなり、美月は過剰な感謝の重圧に押しつぶされそうになった。
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翌朝。シェアハウスのリビングに、なんとも言えない生臭い匂いが漂っていた。
起きてきた住人の一人が、「あれ、今日の朝食はイカソーメンでもある?」と無邪気に勘違いして口にする。
しかし、夜勤明けでリビングにいた葵だけは、すぐにその匂いの正体に気付いた。克実が、夢精をしてしまっていたのだ。
真っ赤になって震える克実の様子を察し、葵は無言で素早くベッド周りのカーテンを閉め、着替えとシーツ交換の作業に入った。
「申し訳ございません……っ。謝る言葉もございません。私のようなキモオスが、皆様の神聖な空間を汚してしまって……」
小声でひたすら謝り倒す克実に対し、葵はプロとしての冷静さを保とうと、克実の耳元で小さくささやいた。
「大丈夫ですよ、橘さん。必要であればそちらの介助もしますので言ってくださいね」
その気遣いの言葉を聞いた瞬間、克実は目を見開き、そして天井を仰いでポロポロと涙をこぼし始めた。
「ああ、神よ……。なぜ私を、このような欠陥だらけの肉体構造に創られたのでしょうか。五十嵐様のような美しく高潔な方に、このような下の世話どころか、卑しい欲望の処理の気遣いまでさせてしまうなんて……私は神を恨みます。五十嵐様、本当に、本当に申し訳ございません……っ」
自分自身の身体構造そのものを呪い、葵にこれほどの負担を強いる運命を嘆く克実。
葵は、彼の言葉を優しく諭すように口を開いた。
「橘さん、ご自身を責めないでください。生理現象は誰にも止められないんです。これは排泄の一部なんですから、決して恥ずかしいことじゃありません」
看護師としての正しい知識で、彼の尊厳を守ろうと強調する葵。
しかし、その言葉を口にしながら、葵自身の心は急速に暗い影が差していった。
(生理現象を止められない……。そうよ、三十八歳の健康な男性が、自分一人で処理することすらできない体にしてしまったのは、私たちが作ったあの棚のせいじゃない。私が、彼の尊厳をここまでズタズタに引き裂いたんだ……)
彼を慰めようとすればするほど、自分たちが彼から奪い去ったものの大きさと残酷さが浮き彫りになる。
光と笑顔があふれていたシェアハウスは、いつしか「逃げ場のない重症病棟」へと完全に姿を変え、女性たちは自らの手で作り上げた地獄の底で、終わりのない罪悪感に苛まれ続けるのだった。




