第19話 贖罪の契約
「でも、どこで介護するの?」若菜が涙声で尋ねた。「空き部屋はもう、僕が使っちゃってるし……」
「……リビングの真ん中しかないわ」
葵が冷静に、しかし残酷な現実を口にした。
「両足免荷で一ヶ月は絶対安静。私や彩夏が常に状態を確認するには、各部屋から必ず目が届く、この回廊型リビングの中心にベッドを置くしかない」
「それって……」
彩夏が顔を青ざめさせる。
「排泄の介助も、このみんなの共有スペースでやるってことだよね」
その言葉の生々しい重みに、全員が息を呑んだ。
「オムツや尿瓶、ポータブルトイレの世話を、みんながご飯を食べるこのダイニングテーブルのすぐ横でするのよ。私たちが食事をしている最中に、その匂いが漂ってくることだって絶対にあるわ。……みんな、それに耐えられるの?」
看護師として働く葵の問いかけは、あまりにも過酷な地獄の提示だった。これまで憩いの場であった明るいリビングが、生々しい排泄と苦痛の匂いにまみれた野戦病院へと変貌するのだ。
しかし、結衣は狂気じみた光を瞳に宿して、深く頷いた。
「耐えるのよ。私たちが、彼から健康な足と腕を奪って、地獄を見せたんだから。食事の匂いの中で排泄の屈辱を味わうのは、私たちじゃなくて橘さんの方なのよ。だから……私たちは、絶対に嫌な顔を一つしちゃいけない」
結衣は、青ざめた全員の顔を見回した。
「橘さんは、私たちの輝かしい未来を守るために、自分から進んで泥を被ったと思ってる。その彼を前にして、私たちが暗い顔をして同情するなんて、彼の覚悟を踏みにじる最悪の裏切りよ。……だから、約束して」
結衣の指先が、小刻みに震えていた。
「橘さんの前では、絶対に、無理してでも笑顔を作るって。彼にこれ以上の罪悪感や負担を感じさせないように、楽しい話題を振って、完璧に幸せなシェアハウスの日常を演じ続けるのよ。それが、私たちの唯一の贖罪なの」
「……そう、ですね」
琴音が中指で眼鏡を押し上げ、冷たい汗を流しながら同意した。
「それが、私たちが彼につかせた嘘を成立させるための、最低限の義務です。どれほど心が壊れそうになっても、明るく、楽しく……」
「ウチら、得意じゃん……」
美月が顔を引き攣らせながら力なく笑う。
「そういうの……」
自分たちが物理的に彼を破壊し、社会的に抹殺したという拭えない事実。その被害者を家の中心に据え、おっさん特有の加齢臭と排泄の臭いの中で満面の笑みを浮かべて「楽しい家族」を演じ続ける。それは、どんな拷問よりも残酷な、精神を削り合う無間地獄の契約だった。
夜が白々と明けるまで、彼女たちは互いの絶望に満ちた顔を見つめ合いながら、そのおぞましくも高潔な覚悟を何度も、何度も確認し合った。
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数日後。五十嵐葵と二之部彩夏は、再び橘克実の病室を訪れていた。
「これ以上、私に関わってはいけないと言ったはずです。あなた方という人々はどうしてそうも時間をドブに捨てたがるのでしょうか」
左腕は妙な角度でギプスに固定され、両足はガチガチのニーブレスやシーネで縛り付けられている克実が、痛みをこらえながら丈夫そうに話す。骨の髄まで響く鈍痛に、克実はシーツの下で右手をきつく握りしめて耐えていた。それでも、彼の顔には完璧なコンシェルジュとしての笑みが張り付いている。
葵はプロであるからこそ、彼がどれほどの痛みを隠しているかが痛いほどわかった。ナースコールすら押そうとしないその姿が、彼女の罪悪感を際限なく肥大化させていく。
「橘さん。突然ですが退院後、私たちのシェアハウスへ来てください。完治するまで、私たちが二十四時間体制で面倒を見ます。……治療費も、生活費も、全部私たちで負担させてください」
葵と彩夏が深く頭を下げて懇願すると、激痛に顔を歪めながらも、克実は即座に首を横に振った。
「とんでもございません!」
克実は、本心からの怯えを滲ませて声を上げた。
「皆様のような、未来ある美しく輝かしい方々の神聖な空間に、私のような薄汚いちんちくりんが入り込むなど……。その上、金銭まで搾取するなど、万死に値する大罪です。どうか、私のことはお見捨て置きください」
「違うんです!」
葵がたまらず叫ぶ。
「あなたが……あなたが私たちを守るために『自分で転んだ』って嘘をついたせいで、あなたは破滅してしまったんです! そんな仕打ちをされたら、私たちは一生、罪悪感で頭がおかしくなってしまうんです……っ!」
彩夏もボロボロと涙を流し、すがるように克実のシーツの端を握りしめた。
「お願いです……。私たちに、お世話をさせてください。贖罪をさせてください。そうじゃないと、私たちこの先、生きていけないんです……っ」
克実は、泣き崩れる二人の若い女性を見て、ハッと息を呑んだ。
(……なんという失態だ。私がここで孤独に野垂れ死ねば、この優しく高潔な女性たちに『人殺しの自責の念』という、一生消えない泥を塗ることになってしまう)
元コンシェルジュの脳が、極端な論理を弾き出す。
(彼女たちが今もっとも求めているのは、罪悪感から救われるための『贖罪の機会』なのだ。ならば、この醜い肉体を彼女たちの介護のサンドバッグとして差し出すこと。それが、今の私にできる究極のコンシェルジュ・サービスに他ならない)
「そこまで仰られるのなら……承知いたしました」
克実が静かに告げると、葵と彩夏は弾かれたように顔を上げた。
「皆様の、その海よりも深いお慈悲に甘えさせていただきます。……ですが、申し出を受ける代わりに、一つだけ条件がございます」
克実は、一切の妥協を許さない、強固な意志を瞳に宿して二人を見据えた。
「かかった費用は、一円単位で必ず私に請求してください。どれだけ時間がかかっても、這いつくばってでも、必ず全額お返しいたしますから。それだけは、固くお約束させてください」
「橘、さん……」
克実なりの「最後の尊厳」であり、決して相手の重荷にはならないという異常なまでの気遣い。その歪んだ善意の契約に、葵と彩夏は首を縦に振るしかなかった。




