第18話 介護の決意
夕刻。シェアハウス「シェアスマイル」の回廊型リビングルームには、住人全員が集まっていた。
どんよりとした重苦しい空気が立ち込める中、ダイニングテーブルの中心で、結衣は病院で克実から聞いた惨状を報告した。
家族に騙され、天涯孤独であること。会社をクビになり、保険も解約したばかりであること。そして、なけなしの貯金が五十万円しかなく、退院後は漫画喫茶に土下座するつもりだということ。
それを聞いた女性陣の顔は、一様に蒼白に染まった。
「五十万って……そんなの、保険や高額医療費制度を使っても入院通院費だけで飛んじゃうっすよ……」
風俗嬢の杉浦玲奈が、頭を抱えて呻く。
「……ねえ、みんな。これを見て」
結衣は震える手で、一枚の書類をテーブルの上に広げた。それは、彼女が今日必死に調べてプリントアウトしてきた、シェアハウスで契約している火災保険の約款だった。
「この家にかけている火災保険には、『個人賠償責任特約』がついているの。日常生活で他人にケガをさせてしまった場合、一億円まで補償されるっていう特約よ」
「それって、もしかして……」
美容師の遠藤美月が、ハサミを鳴らす癖を完全に止めたまま身を乗り出す。
「ええ。もし、私たちが警察に正直に話して、あの棚の欠陥……私たちの『過失』が認められていたら、この保険が適用されたはずなの」
結衣の口から語られる事実は、あまりにも残酷だった。
「もし保険が使えていれば、橘さんの治療関係費は全額実費で支払われたわ。入院費、手術費、通院費、薬代……車椅子や介護ベッドのレンタル代から、通院のためのタクシー代まで、すべて保険会社が払ってくれた。橘さんの貯金五十万円は、一円も減らなかったはずなのよ」
沈黙が落ちた。その沈黙を破ったのは、高校教師の藤原琴音だった。
彼女は無言で立ち上がると、リビングの隅にあった小さなホワイトボードを引き寄せ、胸ポケットの赤ペンを抜いた。キュッ、キュッと乾いた音が響く。
「それだけではありません。保険が適用されていれば、休業損害や、精神的苦痛に対する『慰謝料』も支払われます」
琴音は、冷徹なまでに正確な数字をボードに書き出していく。
「両足免荷による最低一ヶ月の入院。その後の長期にわたるリハビリ期間。現在の裁判基準で算定すれば、最低でも三百万……慰謝料だけでも、百万円以上の金額が、橘さんに支払われるはずでした」
「ひゃくまん、えん……」
介護ヘルパーの二之部彩夏が、すがるように両手で顔を覆った。
ホワイトボードに可視化された「失われた金額」。それは、彼女たちが犯した罪の重さを、物理的な数字として容赦なく突きつけていた。
「あの人が……警察に『自分が勝手に転んだだけだ』って嘘をついたことで、自損事故として処理された。だから、私たちの過失は法的に消滅して、この保険は……一切使えなくなってしまったの」
結衣の声が、絶望で震えていた。
「あの日、私たちが保身のために彼に嘘をつかせて、黙っていたせいで……橘さんは本来もらえるはずだった『数百万円の慰謝料』と『充実した医療環境』をすべてドブに捨ててしまったんだわ」
その事実がもたらす地獄のような罪悪感に、影森若菜はソファの端で「僕のせいで……っ」と再び嗚咽を漏らし始めた。
玲奈は、ギリッと奥歯を噛み締めた。
(アタシらのせいで……。保身に走ったアタシらのせいで、あの人は今、なけなしの五十万を切り崩して、痛みに耐えながら孤独に震えてるんだ……!)
玲奈の脳裏に、自室の引き出しの奥に隠している通帳が浮かんだ。クソみたいな夜職に耐え、いつか海外へ移住して自由になるために貯めてきた、血と汗の結晶。
(……あの夢の資金を、彼の治療費として吐き出すしかねえ。……じゃなきゃ、アタシの魂が地獄に落ちる)
彼女の抱いていたささやかな夢は、この瞬間、自責の念という名の重い鎖によって完全に打ち砕かれた。
「今からでも、警察に本当のことを言えば……」
美月がかすれた声で提案したが、琴音がゆっくりと首を斜めに傾けた。
「どうでしょう。今更保険を使おうと警察に過失を自白すれば、虚偽申告が問われ、我々と橘さんが手を組んでいたのではないかと保険金詐欺を疑われます。それに、事故の調査が入れば、オーナーである結衣さんのお父様にこの異常な事態が知れ渡り、シェアハウスは即時解散。私たちは住む場所を失い、前科がつく可能性も再浮上します」
詰んでいた。
自分たちを守るためについてくれた「致命的な優しさ」が、すべての退路を断ち切っていたのだ。
「保険が使えないからこそ……私たちが、完治するまで面倒を見るしかない」
結衣が、暗い瞳でつぶやいた。
「橘さんをこの家に迎えて、私たちが全額費用を出して、介護する。……それしか、私たちがこの罪悪感から救われる道はないのよ」
その言葉に、リビングは泥のように重い沈黙に包まれた。しかし、誰一人として反論する者はいなかった。自分たちの過失と、それを警察に嘘をつかせて隠蔽したという卑劣さ。その罪の重さが、彼女たちからすべての選択肢を奪っていた。
「……費用は、全員で折半っすね」
玲奈が自室の引き出しに隠した通帳を思い浮かべながら、乾いた声で静寂を破った。「アタシの貯金、全部出す。……彼の足と腕をへし折った代金だ。払うべきだ。これ以上自分を嫌いになりたくない」
「私も、貯金を崩します」
琴音が力なく頷く。
「ウチも……」
「私も出すよ……」
美月や葵たちも次々と声を上げた。彼女たちは自らの夢や未来のための資金を、罪の代償として差し出す覚悟を決めた。




