第17話 絶望の残高
翌日の午後。
消毒液の匂いが漂う無機質な病室のドアを、シンママの神崎結衣と看護師の五十嵐葵は重い足取りで開けた。
「……橘さん、お加減はいかがですか」
結衣が震える声で尋ねると、ベッドの上で両足と左腕を重いギプスや固定具でガチガチに固められた克実が、ゆっくりと首を巡らせた。
鎮痛剤が効いているはずだが、彼の顔色は昨日と変わらず土器色で、額にはじっとりと脂汗が浮かんでいる。骨折による激痛が、彼の肉体を絶え間なく苛んでいることは明らかだった。
しかし、克実は結衣と葵の姿を認めるなり、苦痛に歪む顔へ無理やり極上の笑みを貼り付けた。
「神崎様、五十嵐様……。お忙しい中、私のような壊れた土偶ごときを見舞っていただき、誠に申し訳ございません。わざわざ足を運ばせてしまうなど、万死に値する非礼……」
その一切の悪意を持たない、底抜けに純粋な自己卑下の言葉が、結衣の胸を鋭利な刃物のように抉った。
看護師である葵は、ベッドサイドのカルテにチラリと目をやり、自身の手にアルコールスプレーを強く吹き付けた。
(……痛くないわけがない。普通の患者なら、ナースコールを連打して痛み止めを要求するレベルの重症よ。それなのにこの人は、私たちの手を煩わせたこと『だけ』を本気で悔いている……)
プロの目から見ても、克実の精神構造は完全に破綻していた。
「橘さん、謝らないでください。……あの、今後のことなんですけど」
結衣は両手をぎゅっと握りしめ、恐る恐る核心に触れた。
「退院された後、どうされるおつもりですか? その……お家とか、お仕事とか」
内見に来たということは、引っ越さなければならない事情があったはずだ。影森若菜のように、帰る家がないのかもしれない。
結衣の問いかけに対し、克実はあっけらかんとした口調で、自身の絶望的な状況を語り始めた。
「お恥ずかしながら、私はすでに天涯孤独の身でして。疎遠だった両親が蒸発し、借金の連帯保証人でありました。先日、なけなしの貯金をすべて切り崩して完済したばかりなのです。……さらに不運なことに、その借金騒動がきっかけとなり職場でお客様と会社にご迷惑をおかけしてしまい、長年勤めていた会社を解雇され、社宅も追い出されました」
「え……っ」
結衣の顔から、さぁっと血の気が引いた。葵も信じられないものを見るように目を見開く。
「月々の支払いを減らすため、掛け捨ての生命保険も解約してしまった直後でした。現在、私の全財産は、銀行口座に残っている五十万円程度のみでございます」
克実は、まるで他人の世間話でもするかのように淡々と、決定的な事実を突きつけた。
「ご、ごじゅうまん……っ」
結衣の声が裏返る。両足免荷で最低でも一ヶ月は入院が必要な重傷だ。その後のリハビリ期間や生活費を考えれば、五十万など数週間で消し飛ぶはした金でしかない。
「そ、それじゃあ、退院した後はどうするんですか!?」
「ご心配には及びません。以前お世話になった漫画喫茶に、土下座をして置いてもらえないか頼み込んでみるつもりです。私のような社会の不良品には、屋根があるだけでも分不相応な贅沢ですが……」
克実は本心からそう信じ込み、穏やかに微笑んだ。
(私たちのせいで……こんな、あまりにも惨めな生活へ、この人を突き落としてしまったというの……?)
結衣の足がガクガクと震え、立っていることすら困難になった。葵が慌てて結衣の背中を支えるが、葵自身も激しい動悸で息が詰まりそうだった。
「わ、私たちが……何かお手伝いを……!」
耐えきれず、結衣が思わず口走った。しかし、克実はその言葉を遮るように、真剣な眼差しを結衣に向けた。
「とんでもございません。神崎様たちのような、未来ある美しく輝かしい方々に、私のような壊れ物がこれ以上の迷惑をかけるなど、それこそ死んでも死にきれません」
克実は痛む体をわずかに動かし、ベッドの上でどうにか頭を下げようとする姿勢を取った。
「……ですが、もしも。もし万が一、皆様がお優しさから、私のような底辺にお情けをかけてくださるというのなら。どうかお願いがございます」
克実の深く温かい声が、病室に響く。
「もう二度とこのような場所には訪れずに、ご自身のやるべきことをなしてください。私にかまうだけ時間をドブに捨てているようなものなのですから」
一切の妥協を許さない、強固な意志。それは、自分が彼女らの重荷になることを極端に恐れる、克実なりの「最後の尊厳」であり、歪んだ善意だった。
結衣と葵は、その言葉に反論する余地すら奪われ、ただ絶望に打ちひしがれたまま病室を後にするしかなかった。




