第16話 暗い個室
カーテンを閉め切った、一筋の光すら入らない暗い個室の中。
五十嵐葵は、ベッドの端に腰掛けたまま、暗闇の中で何度も何度もアルコールスプレーを手のひらに吹き付けていた。シュッ、シュッ、という無機質な音が部屋に響く。
(私の気配りが足りなかったせいで。朝、あのグラつきに気づいていたのに、放置したせいで……)
プロとしての責任感の強さが、今は鋭利な刃物となって彼女の精神を切り刻んでいた。どれだけ消毒液を擦り込んでも、自分の手が、あの人の骨を砕いた共犯者の汚い手であるという事実は洗い流せない。暗闇の中で空中にカルテを書くように動く指先は、恐怖でガタガタと震えていた。
別の暗い部屋では、遠藤美月が鏡の前に座り込んでいた。
会話中にハサミを動かすように人差し指と中指をシャキシャキさせる癖。それが今は、ピタリと止まっている。
(ウチが……一番上に鉄アレイなんて置いたから、あの人の腕と足をバラバラにしたんだ。ウチは……また人の人生を壊したんだ……)
過去に客の髪を失敗したトラウマが、克実の肉体破壊という最悪の形でリフレインし、彼女は暗闇の中で自身の指を強く噛み締めて声を殺して泣いた。
高校教師の藤原琴音は、机の上のノートパソコンの前に座っていたが、画面を開く気力すら残っていなかった。
暗闇の中、胸ポケットから取り出した赤ペンを指先で弄る。
(徒然草の遊びがどうとか、しなやかさがどうとか……私は、何を偉そうに語っていたの? 建築の知識もないのに、見栄えだけで欠陥だらけの図面を引いて……私は生徒を導くどころか、無辜の人間を奈落に突き落とした……)
誰かを正しく導き、頼られたいという強い欲求。それが、自らの傲慢によって一人の人間を物理的に破壊したという事実に直面し、彼女のアイデンティティは音を立てて崩壊していた。
杉浦玲奈は、ベッドの上で大量のぬいぐるみに囲まれながら、膝を抱えていた。
いつもなら、男たちの醜い欲望から逃れるための聖域であるはずの部屋が、今は冷たい監獄のように感じられた。
(アタシだ。前日の夜、八つ当たりで下駄箱を蹴り飛ばして、支柱にヒビを入れたのはアタシだ……。アタシが、あのクソみたいな棚を壊す決定打を与えたんだ……)
男を信じられず、裏切らないぬいぐるみだけに愛情を注いできた彼女にとって、克実の「完璧に無害で、自分を犠牲にしてまで守ってくれた優しさ」は、あまりにも異質で、不気味で、そして耐え難いほどの罪悪感を呼び起こしていた。
二之部彩夏は、暗い部屋の片隅で、前世のカルマや運命の浄化を祈るためのパワーストーンを強く握りしめていた。
(私が……重い観葉植物を、風水が良いからって一番上に置いたから、重心が狂った……。これは導きなんかじゃない。私たちが前世で犯した罪なんかじゃない。今、私たちが、この手で彼を破壊したんだ……)
介護の現場で老人の死を見つめ、かつて祖母に対して抱いた黒い感情の代わりに、今度は「自分たちの保身のために被害者に嘘をつかせた」という、逃れようのない現実の醜さが、彼女の心を容赦なく抉っていた。
新しく入居したはずの影森若菜は、電気もつけていない入居したばかりの部屋の床に座り込み、スマートフォンの裏垢の画面だけを見つめていた。液晶の青白い光が、涙でぐしゃぐしゃになった顔を不気味に照らす。
(ボクが……ボクが愛想笑いをして、自分の臆病さのせいで足元をちょろちょろする凛ちゃんを止められなくて……棚に縋り付いて……。ボクが、あの人を壊したんだ……)
高校時代に親友を見捨てた過去の自己嫌悪が、今、目の前で自分の身代わりになって潰れたおっさんという最悪の形で完成してしまった。ヘラヘラと笑って誤魔化すことすらできず、彼女は暗闇の中でただ嗚咽を漏らすことしかできなかった。
そして、神崎結衣は、十歳の娘である凛をどうにか寝かしつけた後、暗いキッチンに一人で立ち尽くしていた。
無意識のうちに、指先が小刻みに、狂ったように動き続けている。
(……私が、あの安くて薄い板を選んだ。短いネジが可愛いからって、ホームセンターの店員の警告も無視して、あの最悪の凶器を作ったのは、私よ……)
完璧な母親でありたい、誰かに必要とされたいという強迫観念。それが、一人の男を再起不能の怪我に追いやってしまった。
しかし、結衣の暗い瞳の奥に、恐ろしい「歪んだ執着」の芽が、静かに、しかし確実に根を張り始めていた。
(橘さんは天涯孤独。両足免荷で一ヶ月もベッドから動けない……。だったら……今度こそ、私が。私たちが、あの人のために何か動くべきではないのだろうか。それが、私たちの犯した大罪の、唯一の贖罪ではないのだろうか……)
誰もいない、光を失ったシェアハウス。
住人たちはそれぞれ、暗い個室の中で、自らが犯した大罪と、背負わされた「一生消えない十字架」の重さに押し潰されながら、終わりのない絶望の夜を彷徨い続けていた。
克実を物理的に、彼女らを精神的に粉砕した棚の残骸はリビングの隅にまとめられシーツをかけられてただ静かに、彼女たちの完成した地獄を映し出すように暗闇の中に横たわっていた。




