第15話 打ち込まれた十字架
遠ざかる刑事の足音が完全に消えた後、病室に重い沈黙が降りた。
結衣と若菜は、張り詰めていた糸が切れたようにその場にへたり込み、ボロボロと涙をこぼした。助かったという安堵と、自分たちの罪を被害者に隠蔽させてしまったという激しい罪悪感が、彼女たちの心をメチャクチャに引き裂いていた。
「どうして……っ。橘さん、どうして警察に嘘なんて……っ」
結衣が絞り出すように問うと、克実は右手を少しだけ動かし、申し訳なさそうに眉を下げた。
「もし警察に本当のことを言えば……あのグラグラの棚のことが調べられ、あなた方が不利になってしまいます。職場や学校に連絡がいったりして、皆様の輝かしい未来が潰れてしまうかもしれない」
克実の瞳には、底知れぬ純粋な優しさだけが宿っていた。
「私は、家族も家も失った天涯孤独の身です。私のような社会にとっていなくてもいい雑草のせいで、皆様のような未来があり美しく高潔な方々の人生を汚すわけにはいきません。……だから、これでいいのです」
それは、一切の打算を持たない、究極の「自己犠牲」だった。
しかし、その悪意のない優しさが、結果として彼女たちの魂に致命的な一撃を与えた。
結衣と若菜は悟ってしまった。自分たちが保身のために彼を見殺しにし、嘘をつかせてしまったという事実を。
「私たち……なんてことを……」
(自分たちが犯した大罪を、被害者本人に嘘をつかせてまで隠蔽させた)
その「一生消えない十字架」が、彼女たちの胸の奥深くに、決して抜けない楔として深く、そして残酷に打ち込まれた瞬間だった。
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夜の帳が完全に下りた頃、シェアハウス「シェアスマイル」の回廊型リビングルームには、冷え切った空気が澱んでいた。
結衣と若菜が病院から戻ってくるのを、残された女性たちは微動だにせず待ち続けていた。誰もテレビをつけようとはせず、スマートフォンを眺めることもしない。ただ、玄関ホールへと繋がる扉を、それぞれの痛切な自責の念を抱えたまま見つめていた。
ガチャリ、と静かにドアが開いた。
リビングに入ってきた結衣の顔は、幽霊のように蒼白で、その目は赤く腫れ上がっている。後ろに続く若菜も、大きなスーツケースを引く力すら残っていないかのように、幽霊さながらに肩を落としていた。
「結衣さん……橘さんは……っ」
高校教師の藤原琴音が、立ち上がりながら縋るような声を出す。その手は胸ポケットの赤ペンを強く握りしめていた。
結衣はゆっくりとダイニングテーブルへと歩み寄り、力なく椅子に腰掛けた。そして、壊れた機械のように虚ろな声で、病室で起きた一部始終を語り始めた。
医師の通報によって刑事が病室へ現れたこと。自分たちの過失がすべて白日の下に晒され、前科がつく一歩手前まで追い詰められたこと。
そして――全身をガチガチに固定され、激痛に冷や汗を流していたはずの橘克実が、刑事にどのような言葉を返したのかを。
「橘さんね……笑っていたの」
結衣の声が、微かに震えた。
「全身の骨が折れて、唇を紫にしてガタガタ震わせながら……刑事さんに、完璧な笑顔を作って言ったわ。すべては自分のどんくささが招いた自損事故だって。自分が勝手に足をもつれさせて棚に激突しただけで、私たちは自分を助けてくれた命の恩人なんだって……そう、一瞬の淀みもなく嘘をついたのよ」
リビングの空気が、ピキリと凍りついた。
看護師の五十嵐葵も、美容師の遠藤美月も、息をすることすら忘れたように結衣の言葉を凝視している。
「刑事が帰ったあと、私たちがどうしてそんな嘘をついたのかって泣きついたら、橘さんは申し訳なさそうに眉を下げてこう言ったわ……。もし警察に本当のことを言えば、君たちが不利になる。職場や学校に連絡がいって、皆様の輝かしい未来が潰れてしまうかもしれない。自分は家族も家もない、天涯孤独の身だから、自分のような社会にとっていなくてもいい雑草がどうなろうと構わない。だから、これでいいんですって……」
結衣の報告が終わると、リビングには完全な静寂が訪れた。
誰も、一言も発することができなかった。
彼女たちの胸の中に真っ先に湧き上がったのは、わずかな濁った「安堵」だった。警察の捜査は打ち切られ、自分たちが逮捕されることも、前科がつくことも、莫大な損害賠償で人生が破滅することもない。私たちは、守られたのだ。
しかし、その安堵が去来した直後、それを何百倍もの質量で押し潰すような、おぞましい「罪悪感」が全員の心臓を容赦なく突き刺した。
自分たちが犯した、法に触れるレベルの大罪。肉体を物理的に破壊したという過失。
それを、被害者本人に、激痛を堪えさせながら嘘をつかせることで隠蔽したのだ。自分たちの社会的地位と未来という保身のために、あの天涯孤独だと自嘲する小柄なおっさんの、異常なまでの自己犠牲と優しさに甘え、彼を奈落の底へ置き去りにした。
それは、法的な裁きよりも遥かに重い、「一生消えない十字架」が彼女たちの魂に刻み込まれた瞬間だった。
ありがとう、などという言葉は、喉を響かせるだけの感謝だけでは物足りない。申し訳ない、という謝罪は、彼がさらに土下座をして自分を貶めるだけの引き金になる。
何も言えない。反論する余地すらなく、ただ自分たちの加害性と醜悪さだけを、克実の「致命的な優しさ」によってこれでもかと突きつけられていた。
重苦しい沈黙の中、まず動いたのは風俗嬢の杉浦玲奈だった。
彼女は何も言わず、気怠げな足取りのまま、リビングに直接面した自室のドアを開けた。バタン、と乾いた音を立てて部屋に吸い込まれていく。
それを皮切りにするように、美月が、彩夏が、琴音が、誰とも目を合わせないように視線を床に落としたまま、無言で立ち上がった。
バタン。バタン。バタン。
廊下のないバリアフリーの構造ゆえに、個室のドアが閉まる音が、リビングのあちこちから不気味に響き渡る。
葵もまた、虚ろな目で自身の指先を見つめながら、静かに自室へと消えた。
最後に残された結衣は、無表情のまま十歳の凛の手をひき、若菜を空き部屋へと促すと、リビングの明かりを消してそれぞれの暗闇へと散っていった。




