第14話 絶望の診断
翌日の午後。
病院の無機質な白い天井を見つめながら、橘克実はゆっくりと意識を浮上させた。
(ここは……そうだ)
状況を把握するよりも早く、全身を駆け巡る凄まじい激痛が克実の脳を殴りつけた。
「……っ!」
痛みに顔を歪めた克実の傍らに、白衣を着た初老の医師が立っていた。
「気がつきましたか。……不幸中の幸いと言うべきか、命に別状はありません。しかし、状況は深刻ですよ」
医師の口から告げられた診断結果は、克実の肉体がどれほど無惨に破壊されたかを物語っていた。
左前腕は尺骨の単純骨折。ヒビが入っており、肘から手首までが重いギプスで固定されている。
さらに深刻なのは両足だった。右足は、重い鉄アレイがピンポイントで直撃した大腿骨遠位の不全骨折。完全に真っ二つに折れてはいないものの、少しでも体重をかければ一気に折れるリスクがあるため、ニーブレスと呼ばれる硬い膝固定具でガチガチに固められている。
左足は足首の激しい捻挫骨折で、大きく腫れ上がりシーネ(添え木)で固定されていた。
「手術こそ免れましたが、両足とも地面につくことは厳禁です。いわゆる両足免荷の状態ですね。最低でも一ヶ月はベッドから動けませんし、その後のリハビリにも相当な時間がかかるでしょう」
淡々と事実を告げ、医師は病室を後にした。
一人残された病室で、克実は動かせる右手をそっと動かし、シーツを握りしめた。
頭の中に浮かんだのは、自身の預金通帳の最後のページに印字された「四十八万円」という数字だった。掛け捨ての生命保険も、つい先日自らの手で解約してしまったばかりだ。
(……入院費、それに生活費とリハビリ費用。国保を使っても、高額医療費制度を使っても、どう計算しても、なけなしの全財産は数週間で完全に底を突く)
克実は絶望の淵に立たされながらも、一切の怒りを感じなかった。
(私のような社会の不具合品が、あの時間にあの場所へ行き、不様に転倒したのがすべての原因。これ以上の治療費を払えず破産するのは当然の報い……。いっそ、このまま生活保護などの社会の血税をすするくらいなら、ひっそりと餓死すべきなのでは……)
極端な自己卑下に囚われ、克実は薄暗い病室で静かに目を閉じた。
+++
その日の夕方。
病室のドアが控えめにノックされ、神崎結衣と影森若菜が顔を出した。
二人の顔色は病人の克実よりも青白く、目の下には濃い隈ができている。一睡もできなかったことは明白だった。
「あの……橘さん。お加減は……」
結衣が震える手で差し出したのは、粉々に砕け散った克実のスマートフォンと、安物の缶コーヒーだった。
「私の電話機。壊れてしまっていたのですね。ただ、使えたとしても連絡する先は無いのですが……」
克実が激痛を押し殺して極上の笑みを浮かべた、まさにその時だった。
「失礼します。橘克実さんの病室ですね」
開け放たれたドアから、スーツ姿の屈強な男が入ってきた。鋭い目つきの刑事だった。
「あなたの担当医から通報がありましてね。これほどの重量物が頭上から落ちてくるなど、状況が不自然すぎる。保険金目当ての自作自演か、あるいは……何者かによる故意の傷害事件の可能性があるとして、お話を伺いに来ました」
「ひっ……!」
若菜が短い悲鳴を上げ、結衣の背中に隠れるようにしがみついた。結衣もまた、ガチガチと歯の根が合わないほどに震え出し、その場に崩れ落ちそうになるのを必死に堪えている。
(終わった……。ここで調べられれば、あの下駄箱の欠陥も、私たちが原因だったこともすべてバレる……!)
前科。莫大な損害賠償。社会的地位の喪失。恐怖が二人の心臓を鷲掴みにした。
刑事の鋭い視線が、部屋の隅で異常なまでに怯える二人の女に向けられた。
(……明らかにおかしい。被害者の見舞い客にしては、顔面蒼白で怯えすぎている。あの女たちが何かを隠しているのは間違いない)
刑事が結衣たちに向き直り、厳しい口調で問い詰めようと息を吸い込んだ瞬間。
「刑事様。どうか、彼女たちを怖がらせないでください」
ベッドから、深く温かみのある声が響いた。
克実は、全身の骨が砕けるような激痛に冷や汗を流しながらも、元コンシェルジュとしての完璧な、そして一切の悪意のない純粋な笑顔を刑事に向けた。
「事件性など、とんでもございません。すべては、私のどんくささが招いた自損事故なのです」
「自損事故?しかし、あなたの今の状況は……」
「お恥ずかしい話ですが、私は昔から不運でして。勝手に足をもつれさせて棚に激突し、下敷きになってしまったただの阿呆なのです。お嬢様方たちは、そんな私を親切にも助けてくださった、命の恩人にすぎません。それに私自身へ、生命保険を掛けておりません故、保険金詐欺という線も消えるかと思います」
克実の言葉には、一片の淀みもなかった。自身を底辺のゴミと信じ込んでいるからこそ吐ける、完璧な自己卑下の嘘だった。
刑事は納得のいかない表情で結衣たちと克実を交互に見比べた。しかし、被害者本人がここまで強固に「自分が勝手に転んだだけだ」と主張し、笑顔すら見せている以上、これ以上の追求は不可能だった。
「……本人がそうおっしゃるなら、これ以上は踏み込めませんね。ではお大事に」
刑事は舌打ちを飲み込み、病室を後にした。




