292/322
第292話「武田の侵食度」
甲斐国、躑躅ヶ崎館。
武田信玄、三十九歳は、南の駿河から届いた戦況報告を精査していた。
内の経済循環が贫弱な甲斐にとって、外への軍事圧力を放出し続けることは生存の絶対条件である。
今年の秋、武田の騎馬隊は完全に南へと旋回し、今川の領国構造を激しく揺さぶっていた。
「越後国境、相変わらず動きはございませぬ。こちらの動きをただ観測しております」
山本勘助、三十九歳が、地図の北端を指して言った。
兵数は最小限だが、完璧な情報支配の網が張り巡らされており、手を出せば泥沼に引きずり込まれる。
短期決戦でしか内を維持できない武田にとって、これほど厄介な存在はなかった。
「今川の統治持続力は、想定よりも早く摩耗している」
信玄は呟いた。
敵武将を殺しすぎず、その構造を自国に吸収する。
信玄もまた、戦を単なる勝敗ではなく、領国の再配置として捉えていた。
駿河の海を手に入れれば、甲斐の渇きは収まり、新たな循環が生まれる。
武田の軍事圧力は、今川の防衛線を着実に侵食していた。
越後という巨大な固定装置が北に厳然と存在することが、武田の進路を自動的に南へと規定していく。
均衡前夜の世界は、その圧力の移動によって、静かに変質を始めていた。




