第231話「氏康の計算」
小田原城の北条氏康は、領内の検地帳を静かにめくっていた。
北条の強みは、四代にわたって積み上げられた税制と、領民への徹底した平分による崩れない構造そのものである。他国がどれほど騒ごうと、小田原の領国は微動だにしない。
「越後で記録係なる者が置かれ、市の数を追っているそうだ」
氏康が呟くと、傍らの宿老が答えた。
「真似事に過ぎませぬ。我が方の検地に比べれば、浅いものでございます」
「いや」
氏康は首を振った。
「我が方の検地は土地を縛るものだが、越後の記録は流れを追うものである。土地は動かないが流れは増える。あの若者は動くものを統治しようとしている」
氏康は筆を置き、炉の灰を火箸で弄んだ。流れを統治する者が現れた時、我らのように土地に根を張るだけの構造は、いずれ外側から干上がるかもしれん、という予感があった。
北条の安定は完璧に見えたが、その完璧さゆえに、変化する持続力に対して氏康だけはかすかな脅威を感じていた。国家の強度は、民意の安定だけでは決まらない。軍事や経済の循環が淀みなく連動して初めて、長期の維持が可能となる。
氏康は手元の検地帳を閉じ、遠い北の空を思った。
「あの子どもが成人する頃、関東の均衡がどう変化しているか」
それを見極めるまでは、小田原の壁を一段と強固に維持せねばならない。氏康の指示により、各支城への兵糧の配給経路の再点検が始まった。それは越後の動きに応じるかのような、静かな守備組織の再配置であった。




