第1話 「愛、終わりの時」
春の空は、どこまでも静かだった。
風は穏やかで、鳥は鳴き、戦乱の世とは思えぬほどに――平穏だった。
だが。
上杉の城だけが、その静けさから切り離されていた。
「……亡くなられた」
その一言で、すべてが終わった。
上杉謙信 ――軍神。
戦場において無敗とまで謳われたその存在は、あまりにも呆気なく、この世を去った。
沈黙。
誰もが理解していた。
これは“死”ではない。
――崩壊だ。
「……これで、上杉は終わりだな」
誰かが、そう呟いた。
小さな声だった。
だが、それは確かに“本音”だった。
その場にいた少女は、何も言わなかった。
ただ、じっと座していた。
年は、まだ十。
名を――愛。
彼女は、まだ知らない。
自分が、何を背負わされるのかを。
数刻後。
城の奥、誰も入ることを許されぬ一室。
そこに呼ばれたのは、ただ一人。
愛だけだった。
扉が閉まる。
外の音が、完全に断たれる。
静寂。
――いや、違う。
“何か”が、そこにいた。
「……来たか」
声がした。
誰もいないはずの部屋で。
愛は、息を呑む。
だが、逃げない。
逃げるという選択肢が、なぜか最初から存在していなかった。
「汝が、継ぐ」
その言葉と同時に――
視界が、崩れた。
戦場。
血。
叫び。
刃。
死。
見たこともないはずの光景が、脳を焼く。
否。
“知っている”。
すべて。
陣形の意味。
敵の思考。
地形の使い方。
勝ち筋。
敗因。
――すべて。
そして、それだけではない。
冷静な声が、内側から響く。
(違う。そこは切るな。囲め)
思考が、二重になる。
いや――
増えている。
理解する。
これは、自分ではない。
だが、自分でもある。
直江兼続 ――知の継承。
そして。
上杉謙信 ――軍神の記憶。
「――――ッ」
膝が崩れる。
呼吸が乱れる。
耐えきれない。
意識が、壊れる。
それでも。
終わらない。
押し込まれる。
無理やりに。
すべてを。
やがて。
静かに。
すべてが、収まった。
沈黙。
愛は、ゆっくりと顔を上げる。
目が、違った。
そこには、もう“子供”はいない。
「……なるほど」
静かな声だった。
だが、その一言で、空気が変わる。
すべてが見えている。
すべてが理解できる。
すべてが――遅い。
「……遅い」
誰に向けた言葉でもない。
ただの事実。
足音がする。
外。
ざわめき。
裏切り。
反乱。
離反。
理解する。
すべて。
「……そうか」
感情は、ない。
ただ、処理する。
立ち上がる。
その瞬間。
“愛”という名が、どこかへ消えた。
「……その名は、もういらない」
扉に手をかける。
開く。
外には、混乱する家臣たち。
そして――敵意。
誰もが思った。
(終わりだ)
だが。
一人の家臣が、震えながら呟いた。
「……あれは」
理解できない。
だが、本能が告げる。
「あれは、軍神ではない……」
別の誰かが、息を呑む。
「……違う」
そして。
その言葉が、初めて口にされる。
「――魔王だ」
少女は、ただ一歩、踏み出した。
戦国が、軋む。
ここに。
上杉 兼継が、生まれた。




