SS7「三人の蒼雷を、もう一度」
「NO……。Rが甘い。もっと舌の奥、巻け」
セイラがそう言うと、シオンは口の中で何度か"r"を転がして、うう、と唸った。
いつものシオンの自宅地下スタジオ。
ソファの前のローテーブルにはノートパソコンが三台。LAのフェス会場の座席表、渡航スケジュール、機材のリスト。準備するものは山ほどあるのに、さっきから一時間、私たちはシオンの発音矯正で足踏みしていた。
「water、ウォーターじゃない。ワラッ、みたいな」
「わ……わらぁ?」
「惜しい。もう一声」
「ああもう!」とシオンが頭を掻きむしる。
「ややこいねん! 世間はウォーターって言ってるやん!」
「だからそれは」
「このペットボトルだって、ミネラルウォーターやろ! 今まで使ってたんは英語やないん? 何語なん」
——まあシオンの言い分も分かる。
私も和製英語を直すのはすごく苦労した。そもそも学校の先生からしてきちんと発音出来てないわけで。
「アメリカ人には、そんなアタシらの都合は、関係ねえんだよ」
「もう、英語アレルギーになりそうや!」
「ちなみに、アレジィな。アレルギーじゃ通じないぞ」
「クソや! 全然ちゃうやんか!」
セイラは若い頃、豪州にワーホリ留学してたらしい。
だから耳がいい。発音もちょっと豪州訛りがあるけどかなりいい。ネイティブとまではいかなくても、アメリカで困らない程度に喋れる。
だから今回のLA遠征、言葉の面はセイラは自分が頑張らねばと意気込んでる。いつもの背負い癖だ。
とりあえずシオンは英語力ゼロ、というより人と喋ること自体が少ない元・引きこもりだ。そもそも英語の前に、日本語コミュニケーションすら怪しいのだ。
それでも本人なりに、必死でノートに発音記号を書き取っている。その健気さだけは本物だった。
私はといえば、リストの数字を電卓アプリに打ち込みながら、二人のやり取りを聞くともなしに聞いていた。
「そういやYUICAは英語どうなん?」
シオンの一言は、ほとんど雑談のついでだった。
「そういば、おまえって地頭いいよな。英語も多少は出来るんだろ?」
セイラもシオンの勢いのまま、質問を被せてきた」
「まあ……一応」
「一応って何だよ」
「一応は一応」
指は電卓を止めない。目も上げない。それではぐらかしたつもりだった。けれどセイラは、こういう時だけ妙に勘が働く。にやりと笑ったのが、見なくても分かった。
次の瞬間、早口の英語が飛んできた。旅行日程の話や、準備機材の話だ——とにかく試すような、意地の悪い速度で。
でも私の口が、勝手に動いた。
習慣とは恐ろしい。考えるより先に答えていた。文法も、発音も、崩れないまま、ひと息で。
言い切ってしまってから、指がようやく電卓の上で止まった。
——しまった。
部屋が静かになった。
「……おまえ」セイラが目を丸くしている。
「めちゃくちゃ喋れるじゃん。ていうかアタシより上手くないか?」
私は答えなかった。冷めかけたコーヒーのカップを、意味もなく両手で包み直す。
「そういえばおまえって、物覚えも異常に速いしさ。即興もバケモンだし。超頭いいんじゃね?」
「……商社にいたから。英語くらいは」
言ってから、また、と思った。黙っていればよかった言葉が、口から出ていくのを止められない。
「商社ってどこだよ」
指先がカップの縁をなぞる。
「……三友商事」
「はあ?」セイラの手が止まった。シオンも、発音記号のノートから顔を上げた。
「YUICAって……エリートだったのか? 大学どこよ」
「一橋」
「……一橋」
セイラが、少しの間、私の顔を見ていた。それから、ふっと肩の力を抜くように、やれやれと笑った。
「え? そこってすごいん?」
シオンが無邪気にセイラに尋ねた。
「東大の次に難関だよ。一橋から商社って、一般家庭が目指せる王道のエリートコースじゃん」
「いや、中野から通いやすかったから」
「通いやすいで入る大学じゃねえんだよ。距離も近くねえし、そもそも偏差値の問題あるだろ」
笑いながら、けれどその目は、笑っていなかった。
「……でもまあ、陰キャなYUICAらしいチョイスだけどな」
それ以上、セイラは聞かなかった。
勘のいいセイラのことだ。一橋。商社。エリート。その言葉を並べた後の、人生終わってた、かつての私とのギャップ。その空白に埋まっているものの大きさに気づいている。
そして、それを掘っていけばどこに行き着くかにも。
両親の事故死のことは、二人とも知っている。だからセイラは、そこで止まった。踏み込めば地雷がある、と分かっている人間の止まり方だった。
私はカップに口をつけた。もう、ぬるかった。
喋れてしまったことが、少しだけ、苦しかった。それがなぜなのかを、私は自分に説明しないことにしている。説明すれば、そのまま答え合わせが始まってしまう。
シオンが、じっと私を見ていた。
何も言わなかった。うちにも英語教えて、とも、大変やったんやな、とも言わない。ただ、私が黙ったのと同じ温度で、シオンも黙っていた。
ギタリストの父を喪った後、部屋から出られなくなって、それでも今ここにいる子だ。私の過去の中身なんて、何も知らないはずなのに——この沈黙が何でできているのかだけは、たぶん、この部屋で誰よりも正確に分かっているのかもしれない。
——ちょっとおバカな子だと思ってたけど少し、見直した方がいいかも。
その、シオンがノートをぱたんと閉じて、言った。
「……じゃあ、うちに英語、教えて」
「え」
——言うんかい。
「三人で、LA行くのに、うちだけ喋れんのは嫌や」
拍子抜けした。あんまり、あっさりと。重い顔ひとつ作らず、まるで醤油を取ってくれとでも言うみたいに、シオンは私の英語を「これから使う道具」として引っ張り出した。
でもそれは過去の話じゃなかった。明日の話だった。
こみ上げてきたものの正体が分からないまま、私は口の端が緩みかけて——慌てて、戻した。
「……教えてやってもいいけどシオン。アンタはまず部屋から出る練習が先だろ」
「うっ」
「発音以前に生活だろ生活。ワラッの前に、ミネラルウォーターくらい自分で買いに行け。毎回“ゆい”をパシリみたいに使いやがって。ニートに海外は百年早いんだよ」
「ひ、ひどい……セイラ、YUICAがいじめる」
「知らねえよ。事実だろ」セイラが吹き出した。
「つーかシオン、たった一言で重い空気変えたな。意外に有能か?」
——無自覚に決まってんだろコイツは。
そう思いながら私は笑っていた。さっきまで部屋に落ちていた重たい沈黙が、噓みたいに軽くなっていく。この二人は、こういうことがうまい。掘らないくせに、埋めるのだけは上手いのだ。
「にしても」セイラが、ノートパソコンの座席表を指でとんとん叩いた。
「YUICAが英語イケるなら、LAは思ったよりなんとかなるかもな。通訳ひとり浮いたわ。……普段ポンコツなクセに、意外と使えるじゃん」
「意外は余計だ。あとポンコツも」
セイラが座席表をスクロールしていく。メインステージ、サブステージ、出演順。指が止まったのは、セットリストの欄が空白のままになっているところだった。
「で、LAで何やるかだよな」
その一言に、部屋の空気が少し変わった。
シオンが、膝に置いたギターケースに、そっと手を乗せた。中身は、父の形見の蒼いレスポール。何を言おうとしているのか、私にはすぐに分かった。
「……蒼雷、やろう。絶対」
ぽつりと、シオンが言った。
「J-ROCKフェスで、ちゃんと歌えへんかった。うちらの蒼雷」
誰も、茶化さなかった。
あの夜のことは、三人とも忘れられない。セイラが倒れて、私が息も絶え絶えに一人で繋いで、シオンが無理矢理ギターで助けて……。結局、掠れた声のセイラが後半だけ戻ってきて——最後のアンコールは、シオンとレイの二人に持っていかれた。伝説にはなった。でも、FAKE-3の三人が、頭から終わりまで、まともな状態で蒼雷を鳴らし切った瞬間は、一度もなかった。
シオンにとって、あの曲は特別だ。父が遺した曲。自分の名前の意味そのもの。それを、ボロボロの即興と代役で通り過ぎてしまったことが、この子の中にずっと引っかかっていたのだろう。
「今度こそ、ちゃんと披露したいねん。うちらの蒼雷」
シオンが、ケースの上で指を握った。
「三人で。頭から、最後まで」
セイラが、ふっと笑った。優しい笑い方だった。
「ああ。LAで聴かせてやろう」
「うん」
シオンが頷いて、それから、ほんの少しだけ悪戯っぽく付け加えた。
「でも……今度は倒れんといてな、セイラ」
——空気が、一秒で凍った。
セイラの笑顔が、そのまま固まる。
「……おい。今それを言うかぁ?」
「あの時、めっちゃ心配したんやで。うち、泣きながらギター弾いてたんやから」
「ま、まあ。わ、悪かったよそれは……」
「全部うちらに押し付けて、勝手に気絶して、勝手に戻ってきて——」
「押し付けてねえだろ! こっちは死にかけてたんだよ!」
「せやから、次は倒れんとって、言うてるだけやん」
「言うタイミングの問題だっつってんだ!」
セイラが立ち上がる。
「さっきの有能取り消しだ。おまえはただのバカだ。バカでデリカシーのないクソガキだ」
「なんでやねん! めっちゃ気ぃ遣ったやろ今の! クソババア!」
「はあ? やんのかこら!」
いつもの、あれが始まった。
私はカップを片手に、二人の言い合いを眺めていた。セイラが顔を真っ赤にして怒鳴り、シオンが関西弁で真顔のまま応戦する。傍から見れば喧嘩だが、これがこの二人のじゃれ合いだ。倒れたことを笑い話にできるくらいには、あの夜は、もう過去になっている。
——蒼雷を、今度こそ。か。
セットリストの空白の一行目に、私は指で「蒼雷」と、なぞるように書いてみた。画面には、何も残らない。それでいい。あの曲は、次はちゃんと、三人で鳴らす。倒れる奴も、代役も、無しで。
「YUICA! 聞いてんのか! このバカガキ止めろよ!」
「私に飛び火させんなよ。セイラの言い方も悪いでしょ。バカにはバカなりの」
「なんでバカって言うんや! うちは正論しか言うてへんのに!」
「ただいまー! おやつ買ってきたよー」
最高のタイミングで、ゆいが戻ってきた。
やっぱり頼れるのはこの妹だ。
おやつと聞いて、シオンは完全にケンカを忘れてゆいにまとわりついている。
セイラは頭を振りながらドカりとソファーに沈み込んだ。
——ああ、これこそ日常だ。
コーヒーの残りを飲み干した。
もう、ぬるくはなかった。ちょうどいい温度になっていた。
SS7 —了—
幻の『蒼雷 FAKE-3 Cover Live version 』
フルアニメーションで公開中
https://youtu.be/zc1qxZv4IQM?si=YpbgWDBN9UMclEzg




