第一章3 『風』
「さて、そろそろ行こっか。」
「...」
「...ひな?」
返事がない。
さっきまであんなに楽しそうに、自分の名前を繰り返してたのに。
ひなは遠くの一点を見つめている。
「どうしたの?」
「...」
笑っていない。
こんな顔をするひなは、初めて見た。
「ひな?」
それでも返事はない。
ひなは何かを確かめるように、じっとその先を見つめている。
やがて、ゆっくりと一歩を踏み出した。
「...?」
もう一歩。
そのまま私の横を通り過ぎていく。
「ちょっと、どこ行くの?」
ひなは答えない。
ただ、まっすぐ歩いていく。
仕方なく、私もその後を追った。
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ひなは迷うことなく歩いていく。
家へ戻る道とは、少し違う。
草の間にできた細い道を、どんどん進んでいく。
しばらく歩くと、見覚えのある道に出た。
図書館へ向かうとき、何度も通ったことのある場所。
片側には緩やかな丘が続いていて、その向こうには海が見える。
反対側には、草に埋もれるように古い石壁が残っていた。
「...ここ?」
ひなが足を止める。
石壁の前には、小さな石像がひとつ。
苔がついて、ところどころ欠けている。
周りには草や小さな花が伸びていて、 ずっとそこにあったものみたいに、景色に溶け込んでいた。
...いや。
本当に、ずっとあったんだ。
私もこの道は何度も通っている。
たぶん、毎日のようにこの前を通る人だっている。
それなのに、この石像をちゃんと見たのは、今日が初めてだった。
「こんなの、あったんだ... 」
ひなは___
ただ、石像をじっと見つめている。
いつものひななら、 「これなにー?」とか言って、とっくに触ってそうなのに。
今は、ただ見ているだけだった。
私も石像に目を向ける。
苔に覆われて、ところどころ欠けている。
顔らしき部分もほとんど削れていて、何の像なのかも分からない。
その後ろには、古い石壁。
...。
......やっぱり、何もない。
「これがどうかしたの?」
そう聞いた、そのとき。
ひなの胸元で、何かが光った。
「...え?」
一瞬だった。
見間違いかと思った。
でも__
もう一度
淡い光が、ひなの胸元から漏れる。
あの飾りだ。
花畑で見かけた、ひし形の小さな飾り。
星にも見える、不思議な形。
「ひな、それ...??」
ひなは自分の胸元を見る。
驚いているようには見えなかった。
ただ、光を見つめている。
やがて、その光が少しずつ強くなって――
ゴ...ゴゴゴ...
...!?
低い音がした。
石像だった。
足元の砂がさらさらと落ちていく。
その瞬間。
石像から、細い光が伸びた。
「...え」
光は地面を伝い、そのまま後ろの石壁へ。
一本の白い線が、壁に浮かび上がった。
「...なに...これ?」
線はそこで止まらなかった。
一本。
また一本。
長い間眠っていたものをなぞるみたいに、白い光が石壁を走っていく。
最初に現れたのは、波のような線だった。
その上に、小さな舟。
舟の中には、人影が並んでいる。
「...舟?」
その先にも線が伸びていく。
陸へ降りる人。
「これ......壁画?」
さらに光が広がる。
人々が降りた陸の、そのずっと先。
大きな山が姿を現した。
壁の半分近くを使って描かれた、ひときわ大きな山。
そして__
その上にも、三本の光が灯った。
...???、三つの人影。
でも、下にいる人たちとは違う。
地面に立っていない。
山へ向かって、空を進んでいる。
その背中からは、 左右に大きく何かが伸びていた。
「...羽?」
人が、飛んでる。
私は壁画の前まで近づいた。
見間違いじゃない。
三人とも、背中に羽のようなものがある。
少なくとも、図書館で見たことはない。
古い歴史の本にも、 授業で見た資料にも。
こんな壁画があるなんて、聞いたことすらなかった。
それが、ずっとここにあった?
何度も通った、この道のすぐそばに。
「ひな、これ...」
振り返る。
「...ひな?」
ひなは、石像を見上げていた。
胸元の星は、まだ光っている。
さっきよりも、ずっと強く。
ひなは静かに目を閉じた。
「...?」
さっきまでとは、また様子が違う。
何かを思い出そうとしているのか。 それとも、何かを感じているのか。
私には分からなかった。
ただ、声をかけてはいけないような気がして、 そのまま見ていた。
そのとき__
ふっと、不思議な感覚がした。
「...風?」
思わず、辺りを見る。
でも、草は揺れていない。
ひなの髪も、私の服も。
風なんて、吹いていなかった。
それなのに。
身体のどこかを、風が通り抜けていくような
...違う。
通り抜けているんじゃない。
私が、風になっている。
そんな気がした。
足元が少し遠くなったような、
身体がふっと軽くなったような。
ほんの一瞬。
その感覚は、すぐに消えた。
しばらくして、ひながゆっくりと目を開けた。
「......」
「どうしたの?」
ひなは少しだけ黙っていた。
「...とんでた」
「え?」
「そら、とんでた」
「空を...?」
「うん」
ひなは両腕を少し広げる。
「かぜが、いっぱいあって...!」
それから、少し嬉しそうに笑った。
「とりになったみたいだった」
「...」
私は、もう一度壁画を見る。
大きな山。
そこへ向かって飛ぶ、人影。
背中には、羽のようなもの。
さっき感じた、あの風。
「...どういうこと?」
...。
だめだ。
もう、考えるのも疲れた。
「ひな」
「?」
「帰ろっか」
「かえる?」
ひながきょとんとする。
「うん。家に」
「いえ?」
「...とりあえず、ついてきて」
「うん!」
ひなは嬉しそうに、私の隣に並んだ。
...。
今日はもう帰ろう。




