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そこにいる理由

ある時、ふと思った。

この沢の上流は、最源流はどうなっているのだろうか、と。

おじいさんとともに上流を目指して歩いていくと、意外な事に沢はどんどん広くなっていった。

そうして辿り着いたのは、小さな湖だった。


どこか、見た事のある風景だと思った。

決して大きくないその湖には、魚の気配がまるで無い。


水面から覗き込んでみても、何の小魚も、虫の姿も見えはしない。

恐ろしいまでの透明度の水は、水中の岩に生えた藻のゆらめきすら克明に観察出来た。


とても澄んでいる。

生物の姿が見えないのは、決して水が腐っているという訳ではない。


水清ければ、魚すまず。


そんな言葉をどこかで思い浮かべた気がした。


奇妙な生命感の無さ。

それでも不思議と何かがいるような、そんな気がした。


あの苔の生えた魚を狙う時のように、虫を餌に針を落とす。

手慰みに作っていた木の浮きが鏡面のような水面に浮かぶ。


老人は何も言わず、ただそれを見ていた。

ただ、私の見ている先を一緒に見ていた。


それからは、肉があって、食べ物をとる必要がない時を選んで、湖で釣りをするようになった。


餌も色々試した。

虫、魚の肉、あの化け物の肉。

ポケットに入ったままだったルアーも試した。

リールも無しにやるルアー釣りは難しい。

ルアーでは当然のように、そして餌にも反応はなかった。


湖で何かが釣れる事は無い。

当たりすらも。

それでも向かう。


そうしなければならない理由があったような気がして。

ひと月か、ふた月か。


ある時、苔の生えた魚の腹の中から見慣れないものが出てきた。

丸く、いやに固い朱色の粒がいくつもこぼれ落ちる。

それはまるでいくらのようで。

卵だ。


季節の変化というものはあまり感じはしなかったものの、魚が産卵期に入ったのかもしれない。

食べればおいしいかもしれなかったけれども、ふと思いついてそれを餌に、あの湖に落としてみた。


いつもと同じ静寂が、静止してしまったような鏡面世界が広がる。

そこに浮かぶ一点の浮きが、あるかなしかの風を受けて、微妙な波紋を広げる。


最初、それを見間違いかと思った。


浮きがひときわ大きな波紋を広げる。

それは浮きが沈んだというよりも、浮かんだように見えた。


一瞬だけ沈み、それがあまりにも早くてそう見えたのだと気が付いた時には、また浮きは、水面は平静へと戻ってしまう。


引き上げてみると、餌はなくなっていた。


はじめて反応があった。

魚の卵というのは、おおよその魚にとってごちそうだ。

そうか、これなら食いつくのか。


もうふた粒を針に通し、湖面へと落とす。

すると、また反応があった。

今度は待ち構えていたので、浮きが消し込んだ一瞬に竿を振り上げる。


ぴんと張った糸から魚の力強さが伝わってくる。

大きい?

心臓の鼓動が跳ね上がる。

どうするべきか、考える時間は一瞬しかなかった。


竿はほんの一瞬で曲がりに曲がり、そうしてそのまま魚の力に耐え切れずに半ばで折れてしまう。

あまりにもあっけない幕切れ。


続けようにも竿がなくてはどうしようもない。

それに貴重な糸と針も持っていかれてしまった。


ポケットの中に入っていたナイロンの糸は残り僅か。

今までの釣りで、岩に擦れたりして糸が傷つく度に、少しずつ結び変えたりしながら使ってきたので、十分な量があるとは思えなかった。


あの竿とリールがあれば。

既に無くしてしまったものを思い出して、悔やんでも今更だ。

それに、やっぱり何かがいた、その確信が得られた事が新たな意欲を湧き立たせた。

やはりいたのだ。


それも力強く、大きな何かが。


次の日から新たな竿探しを始めた。

強く、しなやかで、十分な長さのあるものを。


この世界には竹はどうやらないらしい。

それは今いるこの辺りだけなのかもしれないけれども、結局、竹を見る事はなかった。


仕方がないので、木の枝を使って竿を何本か作ってみた。

節毎に折れ曲がり、決してまっすぐではないそれらは釣りに使うにはやはり具合が悪い。


なにより重く、扱いがたい。

長さも4メートルくらいは最低でも欲しかった。

しかし、条件に合う枝というものは全く無く、最終的に1本だけ見つけた木の若木、それも2メートルにも満たないそれで竿を作った。


これでも正直重すぎて、どうにも扱いがたい。

おじいさんが持ち手を綺麗に削ってくれたので、見た目だけはそれらしい。


強度も最初の竿よりはありそうだ。

あまり限界までしなりを確かめて、折れてしまっては元も子もないので、実際にどの程度まで耐えられるのかは分からない。


それでもこれが今、ある物の中では用意出来る最上の物だ。


残り僅かな糸を結び、おじいさんと共に湖へと向かった。

おじいさんはどう思っているのだろうか?

無駄な事をしている、そう思っているのかもしれない。

相変わらず、お互いに言葉を交わす事は無い。


ただ生きる糧を得るのなら、他にも魚はいるのだ。

別にあの謎の魚を釣る必要は無い。

それも貴重な糸や竿を失ってまで。


何のために狙うのか?

そこに明確な理由は無い。


水があれば覗き込む。

そこに魚がいないか。

いるのなら、それはどんな魚か確かめたいと思う。

それは多くの釣り人にとって自然な感情だろう。


そこに魚はいるのだ。

それはいったいどんな魚なのだろうか?


それをただ確かめたかった。

それこそが、この世界に来た理由なのだと、そう思いたかった。



まだ産卵期は終わってはいないようだった。

幾度か苔の生えた魚を釣り上げると、その中の1匹の腹の中から卵がこぼれ落ちる。


本当は、この時期の魚はあまり狙うべきではないだろう。

卵をかかえた魚を狙って釣れば、自然、次の世代の魚は減る。


それでも今は、あの魚を釣りたい。

それだけを求めた。


今日駄目なら、諦める。

だから勘弁してくれないか。

沢に心の内で語りかけ、湖を目指す。


餌もこれで揃った。

あとは、獲物をどう釣り上げるかだけだ。


湖は相も変わらずの鏡面世界。

良く晴れた空を映している。


卵を針に通し、竿を振り、神経をとぎすまして待った。


高めた集中力のおかげか。

それに気が付いたのは私だった。


いつもならおじいさんが先に気が付く。

アレの気配には。


それはほんの些細な足音だった。

振り返ると、すぐ間近にまであの化け物が近づいてきていた。


おじいさんはすぐさま腰の短剣を抜き放つ。

その判断には一瞬の迷いもなかった。

既に弓矢を構えるには近過ぎる。


私も竿を投げ捨て、手近に放ってあった弓矢を取った。

飛びかかってきた化け物とおじいさんがもみあいになる。


既にいくつかの化け物を射抜いてきた。

そこそこに弓の腕は上がっている。

しかし、もみあいになっているひとりと一匹から正確に一匹の方を射抜ける自信はない。


化け物のアギトがおじいさんの肩にかかる。

何か固い、枝のようなものが折れる音がはっきりと響いた。


「ちくしょう!」


弓を捨てた。

矢を握りしめておじいさんに噛み付き掛かるその頭を狙って飛び込んだ。


化け物はくわえ込んだ肩を離し、その目を私へと向けた。

目が合う。

それでもひるまない。


怒りがあった。

よくも。


この世界でたったひとりの友人を。

よくも。


「よくも!!」


振り下ろした右腕、その矢の先は化け物には当たらなかった。

それどころか、化け物の頭はすりぬけるように動き、その口は開かれ、そして私の腕へとかじりついた。


硬く澄んだ音が響いた。

そして光が化け物の目を焼き、私の目も眩しさに閉じられる。


それはあの小手だった。

あの村で石を投げつけられた時に、石を光とともに弾いた不思議な小手。

それが光り輝いた。


光は一瞬。

化け物が間近にいる感覚がわずかに遠のく。


目を開く。

光でかすんだ目をこらす。

化け物のアギトは既に私の手からは離れている。


化け物は幾度も頭を振っていた。

何かを振り払うように。

まだ目は見えていないようだ。


もう一度右手を振り上げた。

そして一歩前に出る。


渾身の力で手にしていた矢を振り下ろした。


嫌な感触だな。


ずぶりと化け物の首筋に矢が刺さる感触を手に感じながら、どこか他人事のように、そう思った。


化け物が痛みに暴れ出す。

振り回した腕に弾かれる。


「ごほっ」


痛みよりも先に息苦しさを覚えて、むせた。


叩かれた胸が痛む。


遠く化け物の絶叫が響いた。

それは怒りだったかもしれない。

あるいは仲間を呼んでいるのか。


甲高く、耳障りな叫びを上げる化け物をただ見た。

手元に武器は無い。


弓矢は数メートル先に落ちたまま。

取りに行く余裕が果たしてあるのか。


おじいさんは倒れたままだ。

流れ出す赤が決して傷が浅くない事を示している。


死ぬのか。

こんな、どことも知れない山の中で。


私は死ぬのか。

何とも分からない化け物に襲われて。


「ちくしょう」


漏らした呟きが耳に届いたのか。

化け物が叫ぶのをやめて、私を見た。


「ちくしょう」


目を合わせたまま睨みつける。

目を逸らせばすぐにでも飛びかかってきそうだった。


「ちくしょう!」


目を逸らさずとも、声に含まれた敵意に反応してか、化け物が地を蹴った。

それは化け物にしては勢いがなかった。

それでも決して遅くはない。


さっきの叫びは化け物とは違って、誰にも届かないだろう。

この山の中でおじいさん以外に出会った人はいない。


それでも叫んでしまったのは、ずっと黙ったままで暮らしてきたからかもしれない。

ずっと叫びたかった。

助けてくれと。


どうしてこんな目に遭わなければならないのかと。

なぜ。

どうして。

誰か、誰か、どうか助けてくださいと。


再び化け物が飛びかかろうと地を蹴った。

胸を叩かれた衝撃のせいか、起き上がる事すらできない。

逃げる術すら持たずに、飛びかかってくる化け物に手を差し出し、目を閉じた。

少しでも遠ざけるように。

化け物から。

この嫌な現実から。


前の時はおじいさんが助けてくれた。

そのおじいさんは倒れたままだ。

今度こそ、助からないだろう。


今度こそ終わりだ。

色々な思いが一瞬の内に錯綜する。

散り散りな思考の端で思った。


結局、あの謎の魚は釣れないままだった。

いったい、あの魚は。


「なんだったんだろうなぁ」


諦めと共に開いた目に映ったのは、凶悪な化け物の顔。

そして銀色の煌めきだった。


銀?


銀色の太い棒がいつの間にか、化け物の胸を貫いていた。


胸を貫かれた化け物が目の前に力なく落ちる。

それは既に生きたものの動きではなく、動かないものの自然な現象でしかない。


倒れた化け物と刺し貫いた棒とを見て、それが槍である事が分かった。

それも、どこかで見た事があるような気がした。

訳が分からない。

死を覚悟した後だけに、まともに考えられない。

そのせいか。


その落ちた化け物の死体の向こうから人が走り寄ってくるのに気が付くのには時間がかかった。

ふたり連れの女性たちだった。


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