火のぬくもり
粗末な家の中へと通された。
藁葺きの屋根は昔ながらの日本家屋のようで、今はもうすっかり新しくなってしまったけれども、昔、まだ建て直す前の母方の実家を思い出した。
簡素な柵と、小さな畑とまごうことなきあばら屋。
あの沢からいくらか歩いた先にあったのがそれらだった。
家はひとつだけ。
他にあるのは野山のみ。
肩をつかまれ、取り乱した私に対して、老人は手を離して、ただ一歩後ろへと下がり、言葉ひとつ発せずにじっと私を見るだけだった。
私も幾分か落ち着き、改めて老人を見て、緑のコートの肩にかかっているそれにやっと気付いた。
木の枝のようなそれは、私の手にしていた簡素な竿と雰囲気は似ていたものの太く、ゆるやかな弧を描き、その両端には紐が一直線に結びついている。
そして合わせて背負っていた細い籠の中から伸びるのは、ひもの巻き付いたいくつもの棒。
それは自分が知っている物とはやや違った形だったので、気が付くのが遅れた。
弓と矢。
獲物を狩るための武器。
よくよく見れば、老人の腰には鉈か、それとも短剣か。
明らかに刃物が収まっている武骨な鞘と持ち手が見える。
不意にあの村の事がよぎって、後ずさる。
後ろには沢。
逃げるにも足場は不安定。
この老人がその気になれば、弓矢で簡単に殺せるだろう。
しかし、老人はやはりただじっと私を見るだけだった。
いや、厳密には私の腰を見ていた。
そこに下げられたあの苔の生えた魚を。
おずおずと、魚を差し出す。
どうせ調理のしようなどないのだ。
いざとなれば生で食べるという手はあるけれども、ぎりぎりまで挑戦したくはない。
それにここの魚は簡単に釣れる。
すべてを差し出しても、困りはしない。
襲われて勝てるとは思えない。
ならばこの選択肢しかないはずだ。
老人は魚を差し出す私を不思議そうに眺めていた。
そこに言葉は無い。
私にも。
老人にも。
じっとただ待ち、そして老人は、ああ、と言わんばかりに口を軽く開き、やはり言葉はないまま魚を受け取った。
その表情が、どこにでもいるような普通のおじいさんのものにしか思えなくて、つい笑ってしまった。
老人もかすかに笑った。
ほんの少し、目尻が和らいだだけの、かすかな笑み。
それがなんだかとても懐かしく、とても嬉しくて。
ああ。
まずいな。
そう思った時には、泣いてしまっていた。
おじいさんは、そんな私の肩を二度、やさしく叩いた。
そして、おじいさんは振り返り、歩き出し、ちょっと離れては私をじっと見て、それを何度か繰り返した後、ぴたりと止まったまま動かなくなった。
それが意味するのが付いてこいなのだと気が付くのには随分かかった。
そうして付いて歩き、到着したのがこのあばら屋だった。
入ってすぐが土間になっていて、そこからすぐに部屋に上がれるようになっていた。
部屋はひとつだけ。
そこにブーツを抜いで上がろうとすると、おじいさんに止められた。
待っていると、部屋の中央にある囲炉裏、火がついたままだったそれに掛かっていた鍋をはずし、土間と部屋の縁に置いた。
部屋の隅から桶を持って来て、中に入っていた水に鍋のお湯を入れ、それを私の足下に置く。
足を洗えという事だろうか?
不安に思って、確かめるように、脱いだ足を桶に近づけ、おじいさんの顔を見ると、私の行動を確認して、やはり何も言わずにそのまま家を出て、どこかに行ってしまった。
違ったなら、何かしら行動があっただろう。
それが無かったのだから、合っているはず。
そう思ってぬるくなったお湯に足を浸す。
思わず笑ってしまった。
痛い。
それはそうだろう。
足の裏は血豆がつぶれてずたずたに裂けている。
それでも、そのぬるま湯のほっとする温かさに安堵した。
痛い以上に嬉しい。
何年かぶりにこうして温かいものに触れたような、そんな気すらした。
じっくりといたわるように足を洗い、そのまま浸して待っていると、またおじいさんが戻ってきた。
既に緑の葉っぱのコートを脱ぎ、弓矢と下げていた鞘を部屋の隅に無造作に片付ける。
葉っぱのコートの下は、あの村で見たような簡素な貫頭衣。
その体は驚く程に細かった。
まるで枯れかけの老木だ。
血と泥とで汚れたお湯をじっと見て、おじいさんはやはり何も言わずに部屋へと上がり、囲炉裏に取ってきていた薪を足す。
そしてあの魚を串で刺し、火にかけると、私をじっと見た。
なんとなく、おじいさんの言葉なき言葉が分かるようになってきた気がする。
前にもこんな言葉のないやりとりを誰かとしていたような、そんな気がした。
お湯から足を抜き、適当に手で水滴をぬぐって部屋へと上がり、囲炉裏の側に座る。
ぱちぱちと火の爆ぜる音。
魚の焼ける香ばしいにおい。
あたたかな空間。
それだけで、思わず泣きそうになってしまう。
まるで遭難して救助された子供だ。
そんな気持ちを隠すように鼻をこすって、ただただ穏やかに燃える火を眺めた。
頃合いを見て、おじいさんが1本を手に取り、かじりつく。
そして、もう1本を手に取り、それを私へと差し出した。
受け取り、同じようにかじりつく。
遠慮しようにも、お腹がこれ以上なく空いていた。
遠慮する理由がない。
海苔の香り?
ひとくち、口の中へと入れて思ったのは、それだった。
おにぎりを食べているような、そんな気にさせられる。
魚の体をおおっていた苔のようなものが、焼けてなんとも香ばしかった。
おいしい。
ただ焼いただけの魚。
調理と呼ぶにはあまりにも簡単なそれがとにかくおいしかった。
あっという間に食べ尽くすと、おじいさんは残った最後の1本を差し出してくれる。
おじいさんの手にはまだ最初の1本があり、半分もまだ食べていない。
それを示すように、軽く食べかけの1本を上げ、もう片方の1本を差し出す。
遠慮なくそれを受け取り、それも同じように食べ尽くした。
ありがとう。
そう声にして言いたかった。
しかし、言葉は出なかった。
あの村での事を思い出して。
精一杯の感謝を込めて、頭を下げた。
言葉同様に、この行為の意味も通じないかもしれない。
それでもただ頭を下げた。
◇
おじいさんは、魚を食べ終えると、すぐに横になってしまう。
そしてちらりと、私を見ると、そのまま寝てしまった。
無防備な。
もしも私が強盗かなにかで、襲いかかってきたら、どうするのだか。
いや、いきなり会ってすぐの見ず知らずの人を前にして泣き出すような強盗はいないだろう。
それに、部屋の中には大したものはなかった。
いくつかの食器らしきものと、替えの服らしき物が壁にかかっているだけだ。
お金も、お金になりそうなものも、それを隠すような家具の類いも見当たらない。
必要最低限の物だけが、そのままそこに置かれている印象だった。
小さな、ガラスも何もはまっていない窓から外を見た。
既に夜だ。
今から出て行くには、山の夜は暗過ぎる。
身動きしない私をおじいさんが、また薄く目を開いて見た。
そしてまた目を閉じて、今度は私のいる方とは逆を向いて寝てしまう。
良いから、お前ももう寝ろ。
そう、言われたと解釈する。
もう一度だけ頭を下げて、私も横になり、目を閉じた。
無防備なのはどっちだか。
火の爆ぜる音を聞きながら、あたたかな火のぬくもりを感じながら、そうして目を閉じれば、あっという間に眠ってしまった。
そうして、おじいさんと私の静かな暮らしは始まった。
一緒に生活をして思う。
ああ、この老人も、村から、人から、世界から放り出されたのだろうと。
おじいさんは何も強要はしなかった。
庭なのか、畑なのか、それともただの野なのか判然としない畑でいくつかの食べられる草を採取する。
時折、弓矢と鉈ではなく短剣だったそれと、葉っぱの緑のコートを着て狩りに行く。
誰とも接しないし、誰からも接されない。
ただ糧を得て、その日を生き、日が沈めば眠る。
こんな孤独な生活を、このおじいさんはどれだけの間、してきたのだろうか?
時折、狩りに行くおじいさんに付いて行き、あの沢でお礼がわりに苔の生えた魚を釣り上げた。
何度目かの釣りに行った時のことだった。
ついにアレに出くわしたのは。
ずっと奇妙には思っていた。
普通、こうした野山にはなんらかの動物がいるものだ。
狐狸の類い、それこそ狼や熊がいたっておかしくないような雰囲気。
何度か、ネズミかリスか、そうした小さな動物は見た。
しかしそれだけだ。
ある程度の大きさの動物が一切見えず。
それこそ鳥の姿が見えず、鳴き声ひとつ聞こえないというのはどうした訳か?
それなのに、武器を持って老人が野山を歩き回るのはなぜなのか?
その理由は簡単だった。
敵がいるのだ。
あらゆる動物を狩り、例え人間であっても平気で襲ってくる恐るべきけだものが。
最初、それを人だと思った。
距離は遠い。
2本の足で立ち、向こうを向いていた。
姿は黒く、よくよく見れば、服を着ていない。
それがこちらを向いた。
細く伸びた顔はまるで狐のようで、狐と決定的に違うのはその口がいやに長いこと。
こちらを向いた瞬間に走り出す。
その走り方は人のものではない。
前傾姿勢で、時折手をついて、はねるように直進する。
おじいさんが矢を抜いた。
弓をかまえる。
間を置かずに放つと、矢羽根のない、ひもの巻き付いた矢は一直線にその奇妙なけだものへと飛び去る。
けだものはそれを肩で受けた。
それでも止まらない。
「ひっ」
逃げ出そうとして、腰がぬけた。
そのまま崩れ落ちてしまう。
おじいさんは焦らずに、2本目の矢を放った。
それは今度は大きくはねた、けだものに避けられる。
見た。
その真っ赤に開かれた口を。
凶悪な、鋭い牙が無数に立ち並ぶそのアギトを。
襲われる。
そう思い、かばうように手で目を覆い隠す。
しかし、いつまで経っても決定的な瞬間は訪れなかった。
何かが倒れるような音に目を開けば、おじいさんが抜いた短剣で、既に地面に伏していたけだものの首をはねるところだった。
血がしぶく。
頭とで分たれた体がびくりびくりと震える。
胴は熊のようで、針のような黒い体毛がびっしりとおおっている。
手足は長い猿のようで、頭は狐か狼か。
だらしなく開かれたままの口からは舌がたれ、そこにならんだ牙でかみつかれれば、人間の頭なんて簡単に噛み砕かれてしまいそうに思える。
ああ、こんな化け物がうろうろしていたら、それは動物なんていなくなるだろう。
奇妙な生命感の無い山。
その理由がやっと分かった気がした。
おじいさんは化け物をてきぱきと捌いていった。
察するに、どうやら食べるようだ。
いつくかの部位に切り分け、ふたりで持てる分だけの肉の塊を持って、その場を去った。
持てなかった分はそのままそこに置き去りだ。
あれも、他の化け物が来て食べるのかもしれない。
沢で解体した肉を洗い、いくつかは水にさらしたままにして、いくつかを持ち帰り、焼いて食べた。
それは苔の生えた魚なんかに比べると大味で、血生ぐさく、あまりおいしいと言える代物ではない。
それでも、このおじいさんにとってはこれまで命をつないできた食べ物だったのだろう。
文句を言えるような身ではないので、何も言わずに化け物の肉を食べた。
次の日から、身振り手振りでなんとか弓矢を教えてもらった。
あんな怪物に襲われたら。
そう思えば当然のことだろう。
短剣の扱いを教えてもらっても、そもそも短剣はおじいさんの1本しかない。
それに、間近にあの化け物が迫ってきて、冷静に刃を振り回せるとはどうしても思えなかった。
それなら多少は距離のある内に射殺してしまう方がよほど現実的に思えた。
弓矢を教わり、畑をいじり、魚を釣る。
だんだんとそれが現実になり、自分がかつていた場所がまるで夢か幻かのようになっていることが時々恐ろしくなる。
帰りたい。
思っても、どうしようもないこと。
そう。
どうしようも無かった。




